LARMES Column

源氏物語でみる宮廷装束の雅展【着物だいすき】


昨年のやっとかめ文化祭の寺子屋で大好評だった、宮廷装束の専門家、仙石宗久先生の展覧会にお招きいただきました。
源氏物語に描かれた雅な宮廷文化と装束の世界を忠実に再現したもので、光源氏の長子である夕霧の装いを、詳細の考証をもとにして再現制作されました。今では入手不可能と思われた天然染料の植物を栽培から始め、見事に美しくて軽い平安の美を蘇らせました。
徳川美術館所蔵の源氏物語の復元画を見て、なんだか色が綺麗すぎるなあと違和感を持っていた私なのですが、今日、復元された装束を見て納得!天然染料の色とは、こんなにも鮮やかなものだったのですね。自分の感性を恥じました。
源氏物語でみる宮廷装束の雅展は、明治神宮の中にある文化館にて、6月21日曜まで開催されております。お着物好きの方、伝統色や染めにご興味ある方は必見です!


市川右近さんの操り三番叟【伝統芸能の継承者たち】


名古屋で開催された花形歌舞伎も今日が千秋楽。御園座から中日劇場に場所を移して、連日大賑わいをみせてきた。先日、お昼の部を鑑賞。市川右近さんより「ぜひお昼の部を観て欲しい」と伺ったからである。右近さんはすべての演目に出演されており、彼にとってもっとも観て欲しいのが"操り三番叟"の大役だったのだと思う。操り三番叟とは、能楽の翁を題材にした舞踊で、人形に扮した軽やか振りが見どころである。右近さんは舞踊のお家柄に生まれて、歌舞伎の世界に入っていった方なので、DNAに刷り込まれた舞踊の素養がいかんなく発揮される舞台だったのではないだろうか。


そのしなやかな動きと年齢を感じさせない(失礼!)可愛らしさには、目が離せなかった。場内から自然にわきおこる「おおお」という声が、きっと右近さんの耳にも届いていたに違いない。あんまり可愛らしくて本物の人形のようだったので、頭なでなでしたくなりました(笑)。
また後半の"雪之丞変化"は、市川猿之助さんの早変わりが見どころの澤潟屋ゆかりの演目。右近さんは、江戸弁が小気味良い狐軒先生を演じておられた。関西ご出身の右近さんなのに江戸弁が心地よく感じるのは、滑舌の良さだけではないはずだけど、演者さんというのは本当にすごいものなんですね。芸の深さを感じながら、なんとも気分の良い晴れやかな気持ちで会場を後にした。


こちらは別日。
シャンパーニュをご一緒した時のもの。
あ、ちなみに楽屋お見舞に私がお持ちしたのは、コロッケ100個!コロッケ100個って並べるとすごい圧巻の絵でした。写真を撮り忘れたのが痛恨の極みなのだけど笑。右近さんの舞台周りを整えてくださるスタッフの方々にも陣中のお見舞いをしたくて、たくさんお持ちしたのである。右近さんいわく「出演者とスタッフのほとんどがマリコさんコロッケを食べてると思って舞台を観てね」と優しい言葉をいただいた。こういう時のお返しの言葉って、人柄が現れるものだなとつくづく感じながら「あ、目の前の舞台に上がっているあなたも私のコロッケ食べたよね?」と自分勝手な妄想で歌舞伎を楽しんだ。
というわけで、市川右近さん、名古屋での花形歌舞伎、お疲れさまでした!次回どこかの舞台にもぜひお邪魔して、コロッケ100個で楽屋お見舞いさせていただきます(笑)!


日本の色を旅する【徒然なるお仕事】


このコラムで何度も書き記している「日本の伝統色」。わたしたちの周りには、日本ならではの繊細な色が存在しているが、日本人は知らず知らずのうちにそれを享受し、独特の感性として内包していると思う。美しい色だけど、ちょっと控えめな。はっきりと目立つ色なのに、どこかはにかんで。歩みを少し緩めた時に垣間見える色。振り返った瞬間、目に飛びこんでくる透明感のある色。そんな伝統色こそ、COOL JAPANそのものだといつも思っている。
また、伝統色には、日本らしい感性で付けられた素晴らしいネーミングがある。浅葱色、青鈍色、露草色、艶紅、今様色、桃染、裏葉色・・・。この色の名前、なんともうっとりする世界観を、どうしても表現したい。日本の美しい風景とともに紹介してみたい。わたしのこの想いを、何年にも渡って、いろいろな企画書に書き連ね、プレゼンをし続けてきた。


とある企業の会報誌でも、およそ5年ほど前からずっと企画として出し続けていたものが、ようやく日の目を見ることとなり、昨年の秋に取材や撮影が敢行されたのである。取材先はもちろん、京都の吉岡幸雄さんの工房。日本の伝統色を守り、染料の原料となる植物を育てて、伝統色の再現と保存の活動を続ける染織家である。祇園に小さな店舗があり、そこは日本の伝統色でいっぱいなので、京都に行くたびに訪れては溜め息をつき、いつか吉岡さんを取材したいと念を送り続けていたのだが、それがやっとの想いで実を結んだというわけだ。
※↑上の写真は、その会報誌のトップページで用いた写真。吉岡さんの工房で販売されている日本の伝統色のストールである。


残念ながら、ある企業の会員の方にのみ郵送される本なので、一般ではオープンになっていないため、ここでは紹介することができない。もしご興味がある方がいれば、PDFでも読んでいただけるので、よろしかったらメールくださいませ。内緒で(この時点で内緒じゃなくなっちゃってるけど笑)送らせていただきます。ちなみに会員の方からの感想も私たち制作スタッフのところにいただいているのだけど、日本の色の特集はとても評判が良いそうで、私もひっそりと一人で喜んでいる。制作者にとって、こういうフィードバックほど嬉しいものはないのです。読んでくださった方々、どうもありがとうございます。


BCBGから洒落者へ【えとせとら】


人生は旅であり、旅とは人生である、とは中田英寿さんの引退時の名文句だったけど、本当にその通りであると思う。ただし私の場合は、人生というほど大げさなことではなく「生活」と言った方が正しいかもしれない。出張、取材、撮影、個人的な旅を含めて、とにかく移動が多い生活だから、一週間に最低でも一度はキャリーバッグをごろごろ引きずってあちこちに移動の旅をしているからだ。だから我が家には大きさの違うキャリーバッグが5つある。その中でももっとも小さなキャリーバッグは、2000年に購入したものなので、なんともう15年も使い続けていることになる。思い出せば、沖縄ロケから帰ってきた日のうちに、その足で金沢へ行かなければならない強行軍だったため、飛行機に持ち込めるサイズの小さなバッグを探したのだった。そして、その15年選手を、今回、とうとう買い替えることにした。


ところで、私が服や物を選ぶ時の基本色というのがある。コピーライターは常に裏方の仕事なので、仕事の場面で目立った色やデザインの洋服を着るわけにはいかない。だから生意気なようだけど、いつもBCBGを心掛けている。BCBGとは、ボンシック・ボンジャンルのフランス語の略で、良い趣味で良い階級という意味。フランスの上流階級の子息たちは小さい時からBCBGを意識させられ、基本の5色の中から服を選ばれ、オシャレ術を身につけていく。ベーシックな色だけで構成することで、品の良さと清潔感を表現しているのだ。基本の5色とは、黒、茶、紺、白、グレイ。だから裏方の私もBCBGのルールにのっとり、なるべくこの5色から物を選ぶようにしている。2000年に購入した小さなキャリーバッグはサムソナイトの茶色を選んだ。造りがしっかりしているので、15年使ってもどこも傷んでおらず、今でもしっかり現役だ。でもね、オンナノコですもの。本心をいえば、そろそろBCBGのベーシックラインとは違った綺麗な色のバッグを持ちたくなってきたというのが、今回のバッグ買い替えのいちばんの理由なのだ。


買い替えるなら、グローブ・トロッターと決めていた。イギリスでハンドメイドされるトラベルケースである。旅好きなら誰しも憧れる。ところが、悩んだのは色だ。ベーシックな紺、白、茶の他に、水色や紫がある。オレンジも鮮やかだ。いざ色を前にすると、どうしてもベーシックな色を習慣的に選びそうになってしまうのだ。それで某女史にもご意見を求めて、どうしたものかとさんざ悩んだ結果、選んだのが写真の色。綺麗なサックスブルー。


BCBGから卒業してはじめて選んだサックスブルーは、購入した翌々日に早速東京出張に用いた。今までと同じように、階段やエレベーターにぼこぼこと当てまくって、小さな小さなキズをつけてしまったに違いない。雨も降っていたから、綺麗なレザーがすっかり濡れてしまった。でもこれでいいんです。トラベルケースは、新品ピカピカよりも使い込んだ物の方がずっとずっと素敵でカッコいいものだから。


実はこの考え方は、ヨーロッパで父子相伝で育まれた感性でもある。グローブ・トロッターを使いこなしてきた先人たちも、時が経たトラベルケースを、親から子へと継いでいったに違いない。聞いた話によると、イギリスの貴族は、執事を選ぶ際の幾つかの条件の中に、主人と同じ体格を持つことが挙げられるという。なぜかというと、新品ピカピカのスーツやコートを貴族の主人が着ることはなによりも野暮とされており、いかにも長い時代を経て愛された服や物を大切に愛でて使うことこそ貴族の証とされていたから、服を新調した時はまず執事が何度か着ならして、ほどよく馴染んでから主人がはじめて袖を通したのだそうだ。現在NHKで放映されている「ダウントン・アビー」でも、グランサム伯爵と執事のカーソンの体型はほぼ同じ。そこまで計算して役者が選ばれていると私は勝手に思い込んでいる。また、日本でもその感性は昔からあって、新しく仕立てた着物は、まず雨ざらしにしたり(その場合は木綿着物だと思うけど)、外に干したりして、少し使いこんだ風合いをわざと作ったのだそうだ。オシャレの「洒落」の語源は、雨ざらし風さらしの「さらし」だとも言われているから、本来のオシャレさんとは、物を大切に愛でて使う人のことだったのかとも思う。


まぁそういうわけで、すっかり言い訳が長くなってしまったのだけど、私もそこそこいい年齢になったので、これからはBCBGだけじゃなく、ヨーロッパの淑女を見習って、ひとつのアイテムを長く愛する洒落者をも目指していきたいと思っている。どうぞ皆様ご指導くださいませ。


ビビリ者に休みなし!【徒然なるお仕事】


あれ・・・二ヶ月もコラム更新をさぼってしまった。ごめんなさい。
それはさておき、1月4日の夕方、わたしはいま、脱稿したばかりの爽快感を味わっている。なんと清々しい達成感でしょう。しかも、世の中はお正月三が日を過ぎ、明日から仕事始めだというこのタイミングで!
わたしは毎年同じような中途半端な感じでこうして年始を迎えている。広告業界の常で、12月になると春物が動き始めるため、ちょうど年末年始に企画やコピーワークなどが引っかかってくるのである。し・か・も!広告代理店の方々はいとも簡単に「近藤サン、コピーは年始にもらえればいいからね。ボクが年始に出社してパソコン開けたら、原稿が届いてればいいから」とおっしゃる。それでも、年末に抱え込んだ案件を年内にきちんと片付けられる優秀なコピーライターやプランナーは、悠々とお正月を過ごしていると思うのだけど、グズなわたしは年内に別のことに時間を費やしてしまうので、どうしてもお正月休みに原稿書きやら企画書づくりをすることになる。


年内に取りかかる別のこととは・・・。ビビリ性のわたしは、年明け早々に動く取材ものの準備を年内に段取りしてしまうのである。年が明けてから準備したって十分に間に合うであろう細々とした連絡や資料集めなどをどうしても年内にやっておかなければ気が済まないのだ。加えて、人海戦術が必要な友人の仕事を手伝うことにもなり、ますます原稿書きの時間がなくなる。原稿や企画書を書くだけなら自宅で休みに入っても出来るので、つい「お正月に書けばいいや」と思ってしまうのだ。我ながら、なんとビビリ性のことよ。情けなくなる。


実家に戻って、うだうだしながら原稿書き。
姪っ子の愛猫シンバに
時々遊んでもらったり。


一緒にお昼寝しちゃったり。


いただきもののお酒を
時々ちびりちびり。
シンバと一緒に呑んだり・・・嘘。


とまぁ、そんなわけで、2015年もこんな感じでゆるゆるとすでにスタートしております。ビビリ性には休みがない、と割り切って、今年もプランニングやコピーワークに励みたいと思います。あ、わたしはビビリ性なので段取りがきちんと出来ていないと自分が許せなくなるだけでなく、準備が整っていない仕事現場が大嫌いです。が、そういう現場に居合わせてもなるべく怒らず平常心でのぞめるように努力します←嘘。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。


これは今年の年賀状。
文章/近藤マリコ
写真/川嶋なぎさ
デザイン/池上貴文
モデル/某イラストレーターのご母堂に無茶ぶり
ロケ協力/料亭か茂免さんにバーターで無茶ぶり


やっとかめ文化祭、スタート!【伝統芸能の継承者たち】


今年も、やっとかめ文化祭がスタートした!
やっとかめ文化祭とは、名古屋の伝統芸能や、まちに潜む歴史や文化を掘り起こし、徳川の武家文化が生活に根付く名古屋の魅力を再発見するためのイベントである。先週金曜日10月31日にミッドランドスクエアでオープニングがあり、11月1日から名古屋市内の随所で、野外舞台やまち歩き、寺子屋といったイベントが開催されている。
今年はプランニングから参加し、ディレクターとして携わらせていただいている。昔ながらの古い生活環境で、古い人間に囲まれ、古い感性を良しと教育されて育ったせいか、時を経て輝きを増すものが大好きで、歌舞伎や狂言や日舞を観ることが趣味だった私にとっては、心から楽しみつつできるお仕事である。


まちなかで狂言を繰り広げる「辻狂言」をはじめ、
市内随所でおこなわれる日舞、芝居、お茶会、長唄や箏曲、名古屋甚句、お座敷芸、講談に落語。
さらに名古屋の歴史や文化にまつわるテーマで開催される「まちなか寺子屋」。
普段着のまちを歩くことで未知なる魅力を掘り起こす「歴史まち歩き」。
全部でなんと130ものイベントが11月24日まで毎日どこかで行われている。
人気のものは即日完売が出るほど、チケットの売れ行きも好スタートである。
あ、辻狂言などは無料で観ることができるので、会社帰りなどに気軽に寄ってもらえる。
詳細は↓こちらでご覧ください。
http://yattokame.jp/


ミッドランドスクエアでのオープニングの様子

ミッドランドスクエアでのオープニングの様子

雨にもかかわらず結構な人出でした!

雨にもかかわらず結構な人出でした!

3階から観ていた人もいましたよ

3階から観ていた人もいましたよ

ミッドランドスクエアに笑い声が響き渡り、笑神がなんと!シースルーエレベーターに乗って降りてくる瞬間!笑神が現世に降臨した瞬間です!
これ、まだ肌寒い桜のころに某居酒屋で某氏らと共に作を練った企画だった。笑神を降臨させるにはどの場所がいい?吊るしちゃう?なんて言ってたんだったなぁ・・・。実現した瞬間はやっぱり嬉しかったです。


11月1日に開催【日本舞踊を通して和のマナーを学ぶ】の講座。日本舞踊の動きをヒントに、立居振舞や歩き方、立ち方を学んだ。参加資格は女性のみ、着物を着てくること。総勢29名の女性が和気あいあいと笑顔で講座を受けていらっしゃったのが印象的だった。


11月2日に開催【名古屋生まれの日本酒の美味しさとは!?】の講座。緑区の神の井酒造さんの蔵の中で、蔵元社長、日本酒コンサルタント、日本酒利酒師でもあるシニアソムリエの3名による講座で、名古屋生まれの日本酒を美味しく飲むコツを実践交えて楽しんだ。


11月3日開催【老舗料亭でお座敷遊び体験】の講座。西川流4世家元と名妓連の芸者たちが特別講師となり、お座敷遊びの面白さを解説つきで楽しんだ。寺子屋講座の中でも、こちらは即日完売の人気ぶり。料亭か茂免さんの多大なご協力のもと実現した企画だった。


こんな感じで、明日も明後日も、24日まで毎日開催されている、やっとかめ文化祭。名古屋ってこんなに面白いところだったんだー!ってきっと思っていただけるはず。ぜひあちこちのイベントに参加してみてくださいまし。私もどこかの会場にいて働いております笑。


蓄音機に酔いしれる夜【えとせとら】


「蓄音機で聴く音がすごくいいんだよ。涙がでちゃうくらい。聴きにおいでよ」
そう誘ってくださったのは友人のSドクター夫妻。素敵な日曜日の夜は、友人宅の蓄音機を楽しむ会にお邪魔した。みんなで飲み物と食べる物を持参し、蓄音機でシャンソンやクラシックを聴きながら、飲んで食べてうっとりするという贅沢なひととき。実は蓄音機で音楽を聴いたのははじめてのことだった。なんとも言えない臨場感、そして空気の振動と体に伝わってくる響き。歌手や演奏者の緊張感と迫力が時代を超えてすぐ間近に迫ってくる。目を閉じれば、すぐそこで、エディット・ピアフやフレールが歌い、クライスラーがヴァイオリンを奏でているかのようである。


これはSドクターが作ってくれた、今宵の音楽メニュー。アミューズブーシュからはじまり、アントレ、スープ、魚、グラニテ、肉、付け合わせ、チーズ、デザートとフランス料理のコース仕立てになっているではありませんか!なんという心憎い演出!


料理はみんなで持ち寄り。いつもはSドクター自慢の手料理をいただくのだけど、蓄音機は一曲ずつ針を替えたり、ぜんまいを手回しする手間がかかるため、「我が家には執事がいないから僕がやらなきゃいけなくて料理作ってる暇ないから持ってきてね」


で、みんなが持ち寄ったらこんな豪華なバイキングテーブルが出来上がった。事前に持ち寄るものをエントリーしていたので、メニューが重なることなく、しかも一部レストランのプロフェッショナルもいたので、まぁ豪華で美味しくて優しい味ばかりになりました。


バイキングを何度も取りに行って美味しいと言いながら飲んで食べての繰り返し。いつもと違うのは、音楽を聴くことを目的にしているのでみんなが静か!だったことである笑。このカトラリーは、かつてコンコルドで使用されていたものだとか。さすがお道具好き!


さらに、この日のためにSドクターが用意くださったのは、ゲストの名前が冠されたワインたち!左から、NASU、HIDE、MARIKO、KUNIKO。これにはみんなで感激の嵐!こういうおもてなしって本当に最高ですよね。Sドクター、ありがとうございました!


Sドクター、ぜんまいの手回しを巻くの図。蓄音機は電気で動くのではなく、完全なる手回しなので、一曲ずつ回さなければならないのだ。でもこの手間が、音をより貴重なものに仕上げてくれる。「蓄音機はね、電気が介在しないから、不謹慎な話だけど停電の時でも聴けるんだよ」というSドクターの言葉を聞いて、ちょっとドキッとした。蓄音機もそうだが、音源の録音だって、たった一度で歌や演奏をばっちりキメていかなければいけない。今のような編集作業など存在しないから、失敗したらもう終わりだ。蓄音機で聴く音楽に圧倒感があるのは、蓄音機の音の特徴だけでなく、音源そのものに高い緊張感と集中力がこめられているからなのだ。
私の仕事で例えるなら、30年ほど前のコピーライターは、原稿用紙に文章を書いていた。今ならパソコンでコピペもできれば、カットもできるし、もちろん後から文章を組み替え直したり、漢字の使い方を変更することができるが、昔はひと文字ひと文字に思いを込めて、集中して完成させていたはずである。今と昔で文章に力がなくなっているのなら、ここに原因のひとつがあるのかもしれない。


この日の食後酒は、カザルストリオのピアノ三重奏7番「大公」。これは村上春樹が「海辺のカフカ」で"奇跡の演奏"と表現した、あの演奏ですね。かくいう私もハルキストとして笑、海辺のカフカ読了後にCDを買ったのだけど、今日聴いた蓄音機の音とは、似て非なるものだった。それほど心と体に響き渡る音だったのである。
今日の素敵な音がまだ体の一部として残っていて、これをどう昇華したらいいのかちょっと困っている。で、ちょっと考えたのだけれど、Sドクターに出張してもらって、レストランで、蓄音機を楽しむディナー会を催すというのはどうだろうか。音楽に併せて料理とワインをセレクトし、三位一体の陶然を味わうという趣向・・・。ご興味をお持ちの方は、ぜひご一報くださいまし。近々なんとかして実現させたいと思っておりまする。


これが甘露か? "はまぐり椀"の話【今日の地球】

世の中グルメブロガーだらけで、食べる前に写真を撮るのでお店にはシャッター音が響き、その場でブログアップしてたりするので、食べるのに時間がかかり、隣席にそういう方がいらっしゃるとうんざりする今日このごろ。
だからというわけではないが、なるべく料理の写真を撮ることなく、その一品を記憶に留めておこうとする習性が身についてしまった。とはいえ、そのほとんどが忘却の彼方へといってしまうので、やはり記憶に留めるには写真が必要なのかもしれない。これから書く内容は、写真もないのに、記憶を頼りに料理の思い出を記すものである。果たしてどこまでその記憶を表現できるか、自分の文章力の勝負である。


その料理は、とあるお店で春にいただいた"はまぐり椀"だった。潮の香りが広がり、はまぐり独特の旨味が味蕾を刺激する椀は、料亭や割烹などで春になると出していただくので、今年もいろいろなお店で何度かいただいた。けれど、その椀は他のものとはまったく違うものだった。


料理しているところをカウンター越しに見ていたのだが、大将がカツオ出汁をとり始めたので、これから椀料理を出すんだなと思っていた。そのお店はいつもお客に出す直前に出汁をとるのである。そしてカツオ出汁の入ったお鍋に大きなはまぐりを加える。はまぐりが開いた瞬間に椀に盛り、供してくださった。ただそれだけの工程である。塩も入れず、香りづけのネギ類も加えていない。不思議な気持ちになりながら、椀をひと口いただく。うっすらと潮の香りはするが、味はほとんどしない。ふた口目、はまぐりでもカツオでもない、玉露の上澄みのような薄い味わいが口の中に広がっていく。それからはまぐりの身をいただくと、じんわりとその旨味を味わうことができ、そこからはまぐりがつゆに染み出したのだろう。身を食べ終わった後のおつゆは、はまぐりが軽やかに存在を残す、なんともまろやかな味わいだった。海がそのままおなかの中に入っていったかのようだった。


この椀をいただいて驚いたことは幾つもある。
まずカツオ出汁をとったつゆにはまぐりを入れたはずなのに、カツオの香りや味わいを感じなかったことである。はまぐりの味わいも決して強くなく、食べるに従ってはまぐりが出てくるという印象だった。カツオは一体どこにいっちゃったのか???これはどう考えてもわからなかったので大将に聞いたところ、「カツオでもない、はまぐりでもない、ちょうどその中間地点のバランスで味を決めているのです」とお答えに。つまり味がちょうど中和するポイントで、その椀を出しているということなんだろうか?料理は科学だというけれど、まさに科学と感性がなし得る"食べる芸術"である。
さらに、大将は調味をしていない。塩を加えず、はまぐりが持つ塩分だけで味を構成させた。これははまぐりの塩味を十分に承知した上で計算された技術である。香りづけも一切していない。ネギや柚子などの香味も入れず、ただただはまぐりの味わいをかつお出汁で引き出しただけなのだ。なんという潔さでしょうか!

「昆布にもカツオにも寄っていない、まあるい味を感じたら、それは椀として一級品。それを甘露と表現するんですよ」と山本益博さんから教えていただいて以来、甘露を探し求め、あちこちのお店で椀をいただいているのだが、この日の夜いただいた椀こそ、もしかしたら甘露だったのではないだろうか。もしあれが甘露だったとするなら、甘露とはいかにもはかないものである。その思いが数ヶ月経った今でもずっと残っていて、どうしても文にしたためておきたくなった。


山本益博さん農事功労賞オフィシエ受勲【えとせとら】


料理評論家の山本益博さんが、フランス共和国より農事功労賞オフィシエを受勲された。2001年に農事功労賞シュバリエをすでに受勲されており、今回はシュバリエからオフィシエへと昇格されたわけである。マスヒロさんといえば、日本ではじめて料理評論家という職業を確立し、料理人の創意と技術を正確に見極めてフランス料理を中心に広く普及されている方。日本でまだフランス料理がさほど知られていない時代から本場に出向いて、本物の味を分かりやすく軽やかな文章でわたしたちに教えてくださったのである。ひと皿に込められた料理人の情熱に真剣に向かい合い、卓を囲む仲間との会話を心から楽しむその姿に、料理界のみならず多くのファンがいる。日本の若手料理人とフランス料理への架け橋となるべく、様々な活動もされている。農事功労賞オフィシエ受勲は、マスヒロさんの活動実績を鑑みたら、当然というより、むしろ遅かったのではないかとさえ思える。


先日、ジョエル・ロブションのレストランで「益博さんの農事功労賞受勲を祝う会」が催された。発起人は林農林水産大臣、すきやばし次郎の小野二郎さん、ジョエル・ロブションさん。
マスヒロさんからお誘いいただいて、すぐさま「絶対に伺います!」とお返事し、私もその会に参加する栄に浴した。この会では、在日フランス大使館からの叙任式を兼ねており、上の写真は在日フランス大使から叙任されている瞬間である。


マスヒロさんをお祝いしたいと駆けつけたおよそ100人の参加者は、ワイン評論で有名な弁護士の先生、作家、音楽家、ファッションデザイナー、アナウンサー、そして食にまつわる様々な職業の方などいわゆる文化人ばかり。マスヒロさんをはじめ参加者の方々の大人なふるまいに、会は落ち着いた空気感のまま進行していく。


メインディッシュのお肉が終わったころだった。司会の有働アナウンサーからの「マスヒロさんが世界でもっとも大切にしている人からのサプライズがあります」という紹介と共に、会場にスクリーンがあらわれた。


マスヒロさんのお嬢さんのピアノ演奏の様子だった。マスヒロさんのお嬢さんはピアニストを目指し、現在ハンガリーの音楽大学に留学中で、この時は夏休みで帰国されていたのだった。演奏の映像は、ニューヨークでの演奏会とのこと。有働アナウンサーから「音楽の世界の美しさも厳しさも知っているマスヒロさんがお嬢さんを音楽の道に歩ませていらっしゃいますが、どんなことをお嬢さんにお話になっているんですか?」と質問されると、マスヒロさんは「なるべく体を動かさず、感情を顔に出さずに演奏しなさい。体を動かしたり感情を露にするとそれだけ演奏に集中できなくなるから、と言っています」とお答えに。いやいや、娘を心配する親からの助言というよりもそれってプロのアドバイスですよね。そう思っていたら、すかさず有働アナウンサーも「えーと、そういう文化的なことではなく、親から子への言葉ってもう少し違うのでは・・・」と愉快な言葉を添えて会場にも優しい笑い声が起こる。そうなんです。マスヒロさんの魅力でもありすごいところは、ものごとを見つめる視線が常に冷静で安定感があり的確で、さらに深い愛情が注がれていること。料理評論というお仕事で今までに5,000食を食べてきたそうだが「未だに初めて行くレストランではドキドキする」のだそうだ。使い古された言葉だけれど、少年のように純な心と、大人の真摯な眼差しを持った方というところが、私がマスヒロさんのファンであるいちばんの理由だと思う。


さらにこの後、服飾専門家の奥様もご登壇になってご挨拶。「一年に数度ほどしか自宅で食事をしない主人が、なぜ農事功労賞オフィシエをいただいたのか、先ほどの大使からのお言葉と皆様のお話で、今日初めてよくわかりました」会場からは温かい拍手が寄せられた。本当は奥様はマスヒロさんがどんな活動をされているか熟知されているはずである。それでもこうして言葉を選び、マスヒロさんを奥様の立場で支えていらっしゃるというのは、本当に素敵なご夫婦なんですね。そして最後のマスヒロさんの言葉で思わず私も涙した。「私には妻と娘という2人の宝物がいます。この宝物のおかげで、外で自由に好きなことをさせてもらえているんです。心から感謝します」なんて素敵なご家庭でしょう。お互いの仕事に敬意を持ちながら支え合う。良い家庭は良い仕事を作るというお手本みたいだ。なんと、お嬢さんは一度も反抗期を迎えることなく、20歳になられたのだそうだ。


いただいた記念品は、作り手がマスヒロさんのご友人でもある「ボルドー・プピーユ2009」と「FOODIE TOP 100 RESTAURANTS」。ワインは飲む温度についても丁寧な説明書がつけられており、一本のワインにきちんと愛情を注ぐマスヒロさんの姿勢が伝わってくるよう。実はこの記念品選びにもマスヒロ流が見てとれた。というのはマスヒロさんがご挨拶の時に付け加えた説明が「記念品といっても形に残る物ではいけませんので、皆さんが楽しく飲んでなくなってしまう物と思って、友人が作っているワインを選びました」とのこと。そういわれてみると、お祝い会の記念品って、その方のお名前が入っていたり、好みじゃない物をいただいたりすることもあって、形に残る物は場合によって印象に残らないことがある。自らのお祝いの記念品に"これみよがし"な物ではない「消えもの」を選ぶとは、なんという潔さ。不調法な私は、マスヒロさんから本当にたくさんのことを学ばせていただいている。


マスヒロさん、本当におめでとうございます。
マスヒロ教の信者として(これは林真理子さんの言葉である)
これからもついてゆきます!(笑)
この日、再会が叶った北野さんとマスヒロさんと記念写真!


海を見にゆく【今日の地球】


書家の水野清波さんの作品「海を見にゆく」が我が家にやって来た。何ヶ月か前に名古屋市のギャラリースペースプリズムで開催された清波さんの個展で、この作品を見た時、私の脳裏に浮かんだのは、真っ黒な海だった。青ではない、真っ黒である。
幼稚園のころ、夏の家族旅行で行った先で溺れたことがあった。溺れた経験のある人しかわからないと思うのだけど、水の中で自由を失った人間にとって、水は青くなく黒いのである。もがき苦しみ、水を飲んでどうしようもなくなった時に見えるのは真っ黒な風景なのだ。


やがて小学生になった私は、美術の授業の「海を描きなさい」というテーマで、真っ黒な絵の具を使って海を描いた。周りの友人たちが、きれいな青い海や泳ぎ回る魚を描く中、私一人が画面を真っ黒に塗りつぶして絵を描いた。ただ運が良かったのは、美術の先生がなぜ黒く描いたのかと聞いてくれたことだった。あの時、「なぜ青ではないのか?」と聞かれていたら、私の性格は今よりももっとひねくれていたかもしれない(笑)。大人になってからも、やはり海は怖い。でも怖さがあるだけ、海は憧れでもある。海を自由に泳ぎまわることは、ずっと叶えられない夢なのである。今でも海辺のリゾートにはほとんど出掛けない。どこかで海に対して構えているところがあるのだ。
だからこそ、清波さんの「海を見にゆく」を見た時に、心の奥底に潜む海への恐れと憧れが、じわじわと蠢いたのかもしれない。墨で書かれた海という文字が、私の真っ黒な海と重なり合ったのだ。大胆で強い海、なのにどこか悲しくてせつない海を、清波さんはたった6文字で表現されているのだ。これが書の力なのだろうか。
ずっと気になっていた作品を、どうしてもリビングに掛けたくなり、ちょうど名古屋が梅雨入りした頃、ギャラリースペースプリズムの高北さんに相談したのである。我が家の狭いリビングに合う小さなサイズの作品をオーダーできないか、と。かくして、「海を見にゆく」は我が家にやって来た。
清波さんに「海を見にゆく、という言葉は何かの唄ですか?」と聞いたところ、「寺山修司の「悲しくなったときは」という歌に何度も繰り返し登場する歌詞で、とても心に残っていたので、書にしました」と教えてくださった。
↓悲しくなったときは、海を見にゆくという歌↓
http://www.youtube.com/watch?v=eDDH1AnIgr8


そしてもうひとつの黒い海の話。私の心に残っている黒い海は、東日本大震災で津波におそわれた東北の海にもつながっている。あの時、黒い津波が多くの人の命を奪った。場所は海ではなかったのに、海から黒い濁流がやって来たのである。
怒り狂った海と亡くなった人々を想い、大震災直後の卒業式をとりやめにした学校があった。立教新座高校である。ご存知の方も多いと思うが、この時の学校長のメッセージが素晴らしい文章なのだが、このメッセージの中で、海を見にゆくことの意味を学校長は説いている。
私は、海を見にゆく、ということの意味を、ずっと考えながら、書「海を見にゆく」を愛でていきたいと思っている。


これが昨日までのリビングのアート。
青木野枝さんのエッチング作品。
昨年のART NAGOYAで購入したものだ。


これが今日からのリビングのアート。
「海を見にゆく」は真ん中に飾ってもしっくりこなくて、
左の下方に掛けてみた。壁の余白は、大海原のイメージ。
畏れと憧憬が表現できるような気がしたから。真ん中のフックには代わりに帽子を掛けている。


最後に、立教新座高校の学校長・渡辺憲司さんの文章を、ここに引用させていただこうと思う。本文そのままなので長いですが、ぜひご一読ください。
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卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。
 諸君らの研鑽の結果が、卒業の時を迎えた。その努力に、本校教職員を代表して心より祝意を述べる。
また、今日までの諸君らを支えてくれた多くの人々に、生徒諸君とともに感謝を申し上げる。

とりわけ、強く、大きく、本校の教育を支えてくれた保護者の皆さんに、祝意を申し上げるとともに、心からの御礼を申し上げたい。

未来に向かう晴れやかなこの時に、諸君に向かって小さなメッセージを残しておきたい。

このメッセージに、2週間前「時に海を見よ」と題し、配布予定の学校便りにも掲載した。その時私の脳裏に浮かんだ海は、真っ青な大海原であった。しかし、今、私の目に浮かぶのは、津波になって荒れ狂い、濁流と化し、数多の人命を奪い、憎んでも憎みきれない憎悪と嫌悪の海である。これから述べることは、あまりに甘く現実と離れた浪漫的まやかしに思えるかもしれない。私は躊躇した。しかし、私は今繰り広げられる悲惨な現実を前にして、どうしても以下のことを述べておきたいと思う。私はこのささやかなメッセージを続けることにした。


 諸君らのほとんどは、大学に進学する。大学で学ぶとは、又、大学の場にあって、諸君がその時を得るということはいかなることか。大学に行くことは、他の道を行くことといかなる相違があるのか。大学での青春とは、如何なることなのか。


 大学に行くことは学ぶためであるという。そうか。学ぶことは一生のことである。いかなる状況にあっても、学ぶことに終わりはない。一生涯辞書を引き続けろ。新たなる知識を常に学べ。知ることに終わりはなく、知識に不動なるものはない。


 大学だけが学ぶところではない。日本では、大学進学率は極めて高い水準にあるかもしれない。しかし、地球全体の視野で考えるならば、大学に行くものはまだ少数である。大学は、学ぶために行くと広言することの背後には、学ぶことに特権意識を持つ者の驕りがあるといってもいい。


 多くの友人を得るために、大学に行くと云う者がいる。そうか。友人を得るためなら、このまま社会人になることのほうが近道かもしれない。どの社会にあろうとも、よき友人はできる。大学で得る友人が、すぐれたものであるなどといった保証はどこにもない。そんな思い上がりは捨てるべきだ。


 楽しむために大学に行くという者がいる。エンジョイするために大学に行くと高言する者がいる。これほど鼻持ちならない言葉もない。ふざけるな。今この現実の前に真摯であれ。


 君らを待つ大学での時間とは、いかなる時間なのか。


 学ぶことでも、友人を得ることでも、楽しむためでもないとしたら、何のために大学に行くのか。


 誤解を恐れずに、あえて、象徴的に云おう。


 大学に行くとは、「海を見る自由」を得るためなのではないか。


 言葉を変えるならば、「立ち止まる自由」を得るためではないかと思う。現実を直視する自由だと言い換えてもいい。


 中学・高校時代。君らに時間を制御する自由はなかった。遅刻・欠席は学校という名の下で管理された。又、それは保護者の下で管理されていた。諸君は管理されていたのだ。

大学を出て、就職したとしても、その構図は変わりない。無断欠席など、会社で許されるはずがない。高校時代も、又会社に勤めても時間を管理するのは、自分ではなく他者なのだ。それは、家庭を持っても変わらない。愛する人を持っても、それは変わらない。愛する人は、愛している人の時間を管理する。


 大学という青春の時間は、時間を自分が管理できる煌めきの時なのだ。

池袋行きの電車に乗ったとしよう。諸君の脳裏に波の音が聞こえた時、君は途中下車して海に行けるのだ。高校時代、そんなことは許されていない。働いてもそんなことは出来ない。家庭を持ってもそんなことは出来ない。

「今日ひとりで海を見てきたよ。」

そんなことを私は妻や子供の前で言えない。大学での友人ならば、黙って頷いてくれるに違いない。

悲惨な現実を前にしても云おう。波の音は、さざ波のような調べでないかもしれない。荒れ狂う鉛色の波の音かもしれない。

時に、孤独を直視せよ。海原の前に一人立て。自分の夢が何であるか。海に向かって問え。青春とは、孤独を直視することなのだ。直視の自由を得ることなのだ。大学に行くということの豊潤さを、自由の時に変えるのだ。自己が管理する時間を、ダイナミックに手中におさめよ。流れに任せて、時間の空費にうつつを抜かすな。

いかなる困難に出会おうとも、自己を直視すること以外に道はない。

いかに悲しみの涙の淵に沈もうとも、それを直視することの他に我々にすべはない。

海を見つめ。大海に出よ。嵐にたけり狂っていても海に出よ。

真っ正直に生きよ。くそまじめな男になれ。一途な男になれ。貧しさを恐れるな。男たちよ。船出の時が来たのだ。思い出に沈殿するな。未来に向かえ。別れのカウントダウンが始まった。忘れようとしても忘れえぬであろう大震災の時のこの卒業の時を忘れるな。

鎮魂の黒き喪章を胸に、今は真っ白の帆を上げる時なのだ。愛される存在から愛する存在に変われ。愛に受け身はない。

教職員一同とともに、諸君等のために真理への船出に高らかに銅鑼を鳴らそう。
「真理はあなたたちを自由にする」(Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ ヘー アレーテイア エレウテローセイ ヒュマース)・ヨハネによる福音書8:32

 一言付言する。

歴史上かってない惨状が今も日本列島の多くの地域に存在する。あまりに痛ましい状況である。祝意を避けるべきではないかという意見もあろう。だが私は、今この時だからこそ、諸君を未来に送り出したいとも思う。惨状を目の当たりにして、私は思う。自然とは何か。自然との共存とは何か。文明の進歩とは何か。原子力発電所の事故には、科学の進歩とは、何かを痛烈に思う。原子力発電所の危険が叫ばれたとき、私がいかなる行動をしたか、悔恨の思いも浮かぶ。救援隊も続々被災地に行っている。いち早く、中国・韓国の隣人がやってきた。アメリカ軍は三陸沖に空母を派遣し、ヘリポートの基地を提供し、ロシアは天然ガスの供給を提示した。窮状を抱えたニュージーランドからも支援が来た。世界の各国から多くの救援が来ている。地球人とはなにか。地球上に共に生きるということは何か。そのことを考える。


 泥の海から、救い出された赤子を抱き、立ち尽くす母の姿があった。行方不明の母を呼び、泣き叫ぶ少女の姿がテレビに映る。家族のために生きようとしたと語る父の姿もテレビにあった。今この時こそ親子の絆とは何か。命とは何かを直視して問うべきなのだ。

今ここで高校を卒業できることの重みを深く共に考えよう。そして、被災地にあって、命そのものに対峙して、生きることに懸命の力を振り絞る友人たちのために、声を上げよう。共に共にいまここに私たちがいることを。


被災された多くの方々に心からの哀悼の意を表するととともに、この悲しみを胸に我々は新たなる旅立ちを誓っていきたい。

巣立ちゆく立教の若き健児よ。日本復興の先兵となれ。


 本校校舎玄関前に、震災にあった人々へのための義捐金の箱を設けた。(3月31日10時からに予定されているチャペルでの卒業礼拝でも献金をお願いする)

被災者の人々への援助をお願いしたい。もとより、ささやかな一助足らんとするものであるが、悲しみを希望に変える今日という日を忘れぬためである。卒業生一同として、被災地に送らせていただきたい。

梅花春雨に涙す
2011年弥生15日。
立教新座中学・高等学校

校長 渡辺憲司