今日の地球

わたしの遠野物語【今日の地球】


柳田國男による遠野物語を読破してからのぞんだ遠野への旅は、佐々木要太郎氏が著した本『遠野キュイジーヌ』を読み閉じることで一旦の終わりを迎えた。一旦、というのは仮初の、という意味で、必ずまた遠野を訪れるであろうという確信のもと、ここに夏の思い出を記しておこうと思う。
佐々木要太郎さんとは知り合ったのは、数年前の東京での食事の場で友人から紹介を受けた時だった。その時一緒にいた別の友人と必ず遠野の佐々木さんのオーベルジュに行こうと約束したのに、友は先に空へと旅立ってしまった。その思いだけで数年が過ぎ、今夏やっと遠野の旅が実現したのだった。
今回の旅の友は、気心も胃心も知れた仲間なので気楽なノープランの旅。花巻ではじめてのわんこ蕎麦に挑戦し、宮沢賢治の足跡をたどり、にわかイーハトーブファンとなったところで遠野入り。
佐々木要太郎さんのオーベルジュ『とおの屋 要』は、遠野駅からほど近い街中にある。一歩足を踏み入れた瞬間に、ここは異空間であるとはっきりわかるのに、その境目が曖昧模糊としているためか、わたしたちはごく自然にその中へと誘われる。
家具も絵画もなにもかもが、主張せず、かといって控えめなわけでもなく、この空間の創り方を見るだけでも、佐々木さんの感性が伝わってくるようなオーベルジュであった。

佐々木要太郎さんは、米の農家であり、その米から作るどぶろくの醸造家であり、野菜や魚や肉を発酵させて料理する発酵料理人。これらすべてが彼の職業である。
佐々木さんにとっては田圃を耕すことがすべての基本なのだが、これは”お百姓さん”としては理想の生き方ではなかろうかと思う。お百姓さんというのは、常に百の仕事をしなければいけないから百姓と呼ぶという説を前に聞いたことがあるが、佐々木さんをしてお百姓さんの理想の生き方と評するのはそういう意味である。前述した職業の数ではまったく足りない。おそらく軽く百以上はあるだろう。

毎日、田圃をみつめ、空を眺め、晴れていれば食べ物を干して保存食をつくり、雨なら発酵食に手を入れ、土とともに生きる。

なにか説明を聞いたわけではないが、彼の発酵料理を彼のどぶろくとともにいただいて、佐々木要太郎さんの一年365日の朝から夜まで費やす時間を感じ、想像し、楽しませてもらった。発酵料理も素晴らしいものだった。農家や醸造をやりながら、ここまで料理に向かう時間と頭がどこにあるのか???心底、驚いた。

たった一泊二日の旅だったが、遠野の旅はいろいろな内省を促してくれたように思う。これからの日本の生きる道は、日本の里山にあるのではないだろうか。佐々木さんは田圃に立つことからすべてを始めた。田圃の周りにある木の実や、畦道にはえる草を見つめた。
脚下照顧。
宝物は自分達の足元にある、ということを佐々木さんが教えてくれた気がする。


どぶろくを何度お代わりしたことか。これ以外にも貴重なものをたくさん。ボトル写真はアップを控えます。

シグネチャーメニューの”芋サラ”


田圃にはえていた蓬で作った焼き麩 バタームニエルして酢味噌を添えたもの

南部小麦のパスタ、朝どれアスパラガスと自家製ベーコン

豆腐の味噌漬け、三年熟成の豆やら納豆やら、豆いろいろ

ホタテの糠漬茶漬け

アートはさりげなくウォーホル

朝ごはん。左のおかゆさんは、どぶろくを作る遠野1 号というお米の玄米。お味噌汁はいわし出汁。丸干しが美味しかった。お揚げさんも。


閖上の赤貝【今日の地球】


静養という大義名分の怠惰なお正月を過ごしながら、
入院騒ぎで年末にやれなかった2021年の振り返りをしている。

貴重なお席を予約してくださる友人たちのおかげで、
昨年も美味しいものをたくさんいただいた。
記憶にしっかり刻まれた美味は数多くあり、
はじめてお邪魔したお店で思わず感嘆の声をあげたことも2度や3度ではなかった。
そんな経験の中で、今も心にあたたかく残ることがあったので、
ここに書き留めておきたいと思う。

9月の銀座。
アニキと慕っている某人と、お寿司屋さんに出掛けた時のことだった。
色艶もよく肉厚の見事な赤貝の握りを口に入れた瞬間に、昆布の味わいが広がった。
思わず目をぱちくりしていると
隣のアニキが「閖上(ゆりあげ)だね?」と一言。
お店の親方がにこりと笑う。

閖上は宮城県名取市の漁港で、良質な魚が水揚げされることで知られる町なのだそうだ。
特に閖上の赤貝は、良質な昆布の味わいや香りが出ることから、
築地、もとい豊洲ではお寿司屋さん同士の争奪もなかなか激しいのだそう。

酢の効いた酢飯がソースにように赤貝に寄り添って
なんというハーモニー、と一人勝手に陶然としていたその時
アニキが小声で話し始めた。

閖上はね、3.11でそれは大きな被害を受けて、
漁港が再開できるのか、漁はできるのか、海の魚たちは大丈夫かと
関係者からずいぶん心配されていたんだよ。
わたしも、もう閖上の赤貝が食べられなくなるのではと思っていたしね。
それから何年たった時だったかなぁ。
このお店で親方が何も言わずに赤貝を出してくれたんだけど
食べた瞬間、すぐに閖上だとわかってね。
親方の顔を見たら、親方が今みたいにニヤッと笑ったんだ。
閖上で漁が再開できたんだ!よかった、本当によかった!
赤貝を食べながら、知らぬ間に涙がこぼれていたんだよね。
今もその時のことを思い出してしゃべっていると泣けてくるんだけどさ。

アニキは目にうっすら涙をためながら、話してくれた。

生産地に思いを馳せ、作り手に敬意をはらい、
完成された料理を味わい尽くし、
言葉に出すことなく作り手と会話し、
心をこめて一期一会の食に向かうということの、
こんなにも素晴らしいハーモニーがあるだろうか。

そんな域にはまだまだ達することはできないけれど
今年も諸先輩のお導きに従って、
体を気づかいながらも、楽しい旅をしていきたいと思う。


母が旅立ちました【今日の地球】


師走の寒い朝、母が宇宙旅行に旅立った。

母は、いろんな意味でネジが激しくぶっ飛んでいる人だった。乳母日傘で育てられており、子供のころは文字通り専属の乳母がついていたそうで、学校で食べるお弁当は朝作ったものだと冷めてしまうため、おなかを壊すといけない、と、乳母が出来立てのあたたかいお弁当を学校まで手運びして食べさせていたらしい。今の時代では考えられないような環境で暮らし、大人になっても世間知らずのままだった。時に社会通念がまったく通じないところがあり、ネジがぶっ飛んでいるというのは、そういうことである。
わがままいっぱいの過保護に育てられた母が、天衣無縫な、別の言い方をすれば野性的な父と結婚して生まれたのが、姉と私である。父母ともに昭和ヒトケタ生まれのいわゆる戦中派。その当時の日本人がみんな持っていた矜恃のようなものを、わたしたち姉妹は知らず知らずのうちに教えられて育ったように思う。
母の場合は、昭和最後の旦那衆と呼ばれた祖父(母の父)への絶大なるファザコンがあったためか、とにかく振舞うことが好きな人だった。たとえば、我が家の到来物はよその家にお裾分けしてしまうので、わたしたちの口には入らない。小学生のころの夏休みのこと。果物を専門に扱う会社の方から、父のところに夏の果物がたくさん届く。スイカは週に2度は届いていたのではないかと思うが、それが全部よそにまわされてしまうのだ。クラスメイトの家に遊びに行ったら、そこのおばさんが冷えたスイカを出してくれたので、「スイカ食べたくて仕方がなかったの!うれしい!」と喜び勇んでスイカをぱくぱく食べると、おばさんが「このスイカ、まりちゃんのお母さんからいただいたんだよ」と言うではないか。帰宅して母にそのことを話すと、ケラケラと笑って、明日買ってきてあげるね、と分かりやすい嘘をつかれたため、悔しくて父に訴えたところ、友達が喜んでいるならいいじゃないかと、また納得のいかない諭され方をしたのだった。
そんなおかしな振る舞い方をする一方で、物を大事にすることに関しては、とても厳しかった。使い捨てるものは買わなくていい、たとえ高くても長く使えるものを買うようにといつも言われてきた。そのしつけのおかげか、まな板やお鍋は大学から一人暮らしを始める時に母が揃えてくれたものを今も使っているし、母の嫁入り道具のほとんどが大切に残されているので一部を私が受け継いでいる。
私が大学入学で一人暮らしをする時、引越しには母がついてきてくれたが、家財道具が部屋におさまり、大学の入学式を終えると、母は帰っていった。私は東京駅のホームまで母を見送ったのだが、その時、母は人目を憚らずに大泣きして、涙を流しながら新幹線に乗った。席についてからも窓の外の私を見つめて泣き続けていた。西陽のあたる新幹線の窓から見えた母の泣き顔、あの時の光景は忘れられない。
そして、母は花を生けることがとても上手な人だった。花屋さんで買ってきた花を、私が池坊的に生けると母は褒めてくれたが、私には庭に咲いた茎が曲がった花はうまく生けられない。それが不思議と母の手にかかると、野花は自然にあるように花入れに美しくおさまるのである。


結婚前に習い事はひととおり仕込まれた母だったが、日本舞踊は祖父が踊りの師匠の後援会長をしていたことから、舞踊の舞台には何度も出演している。その時のおびただしい数のモノクロ写真が今でも残されているが「茶音頭」という舞踊を踊った時のことは何度も聞かされた。お茶の点前をしながら踊るので、母いわく「子供にとっては本当に難しくて覚えられなくて泣きながら練習した」のだそうだ。この写真のお点前をしているのが母なのだが、おそらく茶音頭のためのお茶のお稽古だったのだろう。すました顔をしているが、内心は嫌で仕方がなかったのだと言っていた。それでもそうしたお稽古ごとのいろんな所作が身についていたので、たとえば花を生ける時の手に現れていたのではないかと思う。お茶に関してはさほど熱心にお稽古しなかったようなのだが、ことあるごとに「あの人はお茶があるね」とか「この空間ってお茶があるよね」と、“お茶がある”という表現をしたのも母独特の言い回しだった。私も若い時には、その意味がよくわからなかったのだけど、中年をすぎつつある今、“お茶がある”ということの意味がすこしだけわかりかけているところだ。

父が亡くなってからは認知症を患い、少しずつ子供に還るように無邪気になっていった母。1週間ほど前から食べられなくなり、立てなくなり、すべての機能が緩やかに止まりはじめた。最後は姉と私を前にして、声にならない声を力一杯出した後、眠りながら安らかに旅立った。もともと色の白い人だったが、今、隣に眠っている母は、今まで見た中でもっとも美しく、シミひとつない雪のように真っ白な肌と、少女のように透き通った心で天に召された。葬儀までの時間は、昼も夜も母の隣でずっと過ごし、思い出話を姉と語っていきたいと思う。


ばいばい、かんべちゃん【今日の地球】


昨日の打ち合わせで、長年の仕事仲間から「なにがそんなに悲しいんだ?」とのっけから言われた。自分では気がついていなかったが、自然に涙を流したまま仕事場に向かっていたようだ。その前日の3月9日、友人から「かんべちゃんが亡くなった」と電話があった時、誰がそんな悪ふざけをしているんだろう? 冗談でもたちが悪いと思った。もしかして今日はエイプリルフールだったっけ?とカレンダーを見直したりもした。盟友・神戸宏樹が急逝した、と頭で理解できたのは、数時間たってからだった。
神戸宏樹とは、年数こそ8年たらずだったが、本音で喧嘩ができる貴重な友人付き合いをしてきた。姉弟のような、兄妹のような、時に母のように、父のように、言いたいことを言い合える仲である。彼が会社を辞めようと思うと相談された時、わたしの恋愛がらみの話を聞いてもらった時、ある案件を2人で引き受けてやっていこうと話し合った時。いろんな場面で彼が見せる知性は私を驚愕させた。実はただのバカボンだと思っていたので(実際、彼はそう装っていた)、そのことを彼に伝えると、傷ついたそぶりも見せず、ケラケラと高笑いをして見せた。この人の奥底はかなり深いけれど、それをまったく見せずにいられるのは何故なのだろう?と、かえって興味がわいたほどだった。
仕事柄、多くの人をインタビューし、その人柄を探っては文章化してきた経験から「あなたは稀有なSキャラである」と本人の前で結論づけたところ「まったくその通りだ」と答えが返ってきたこともあった。そして、経済的な差異とか出自の問題とは別に、ほとんどの人が根底に抱えている些細な卑しさのようなものを、まったく持ち合わせていないのが神戸宏樹である。わたしは彼から卑しさのかけらも感じたことがなかった。

ある夜のこと。彼と私の会話。
「かんべちゃん、美食もいいけど、今のままの食生活では本当に体が心配。あなたの財布を狙ってたかってくるような人と深夜まで飲むのはもうやめなさい。その人たち、あなたの健康を考えているならそんな飲み方させないはず。本当にあなたの体を考えてくれているなら、12時には帰さないと。そんな奴らとは縁切りしなさいよ!」
「マリコリーヌ、いま、何時か知ってる?」
「知らんわっ」
「夜中の2時なんだけど」
・・・・・・・・・・・・・・・。

これ以外にも、実にたくさんの語り合い、そして喧嘩やら、まぁいろいろな思い出がある。いつか私が公私ともに大変なことがあり、ひどく落ち込んで鬱気味になっていた時、朝いきなりマンション前にやってきて、ドライブに行こうと誘ってくれたことがあった。私が大好きなトンカツを食べに連れて行ってくれたのだった。なにもしゃべらなくていいから、と、彼が一人でずっとしゃべっていた。私の仕事にも多くのアドバイスをくれた。説教マニアだったので、方々で説教しては女の子を泣かせていたみたいだった。検討はずれな説教が多かったけど、時には真実をついた深い助言をくれることもあって、その度にハッと気づかされることになり、いつかお礼を言おうと思っていたのに、彼は長い旅に出てしまった。
美味しいものが大好きで、いろんなお店で食事とワインをご一緒した。旅にもよく出掛けた。東京には数知れず、福岡や小倉、京都、鳥取には毎年、富山、滋賀、と思い出は尽きない。オマージュ、オーベルジーヌ、紀尾井町三谷、鮨みずかみ、かに吉、アニス、ほうば、エッレ、すきやばし次郎にも行ったなぁ。。。
コロナが収束したら互いに好きな街を案内し合おうと約束していた。私がパリの左岸を連れまわし、かんべちゃんがアメリカ西海岸をドライブに連れていってくれることになっていた。私が行きたくないと渋っている沖縄と、べんちゃん(冒頭の写真の左手前)のいるインドネシアには、たえちゃん(冒頭の写真の右手前)と3人で行こう、そう話していた。

今頃、かんべちゃんはどこにいるんだろう。「ねぇねぇマリコリーヌ(なぜか彼はそう呼んでいた)、俺さー、死んじゃったみたいなんだよね」と、とぼけて言っているような気がしてならない。
2021年3月8日、50歳と3ヶ月ぴったりの日に亡くなり、
鎮魂の日、祈りの1日である今日3月11日に、荼毘に付された。
私は、友のいない、この世を、これからも生きてゆかねばならない。

最後に、私が大好きな「畔倉重四郎」の最後の言葉をかんべちゃんに捧げたいと思う。畦倉重四郎とは、大岡裁きにあった稀代の悪党である。その重四郎が大岡越前に捕らえられて罪を認めた後に放ったセリフ。(講談師・神田伯山が松乃丞時代に連続読みを行った)
注※ただしかんべちゃんは私が知る限り、悪党ではなく善人で、女友達は多かったが女関係は残念ながら(笑)クリアだった。

これからテメエらは情けねえジジイとババアになって、薄っぺれえ煎餅布団に寝ながら、こうすればよかったああすればよかったと、細く長い浮世を生きる。俺は、気に入らねえ奴はばっさばっさと切り捨てて、美味いものがあれば食べ、美味い酒をくらい、いい女がいたら抱く。それに比べて、テメエらは金もないから欲しいものも我慢して、肝っ玉が小せえばかりに嫌いな奴がいてもせいぜい影で悪口をいうくらいだろう。いまわの際の布団に入った時、テメエたちは、こんなことならおもしろおかしく生きればよかったと後悔すらあ。
テメエたちは俺が地獄に行くと思っていやがるな、いや違う。テメエたちがいるところが地獄なんだ。俺は極楽だ。
テメエたちは、細く長くつまらねぇ世を生きればいいや。後世に名を残すのは、おめえたちじゃねえ。太く短く生きたこの俺なんだよ!



枕上鞍上厠上【今日の地球】

枕上鞍上厠上(ちんじょうあんじょうしじょう)を、三上(さんじょう)と言うらしい。
考えるのに良い空間のことを示していて、帰田録を書いた欧陽脩という人の言葉らしいのだが、まさにこの通り!と膝を打ちたくなるのはわたしだけではないはずだ。
寝床・乗り物・トイレ、が、思索をめぐらすのに適した順番という意味で、決して机上ではない、ということを言っている。わたしの場合は、特に枕上でこれだ!というアイデアを思いつくことが多い。
若い時にはメモをしなくても思いついたことは覚えていて、一週間先の予定まで頭にしっかり入っていたほどだった。が、人生の折り返し地点を過ぎたころから記憶力が悪くなり、今では明日の予定は手帳を見ないと確認できないほどのダメっぷりである。
ところが、それと反比例するように、アイデアは枯渇しないどころか、泉のようにこんこんと湧いて出てくる。仕事以外のプライベートでも、楽しいことならいくらでも思いつく。歳を重ねるというのは、こんなに振り幅が豊かになるものなのかと我ながら驚くほどだ。先輩クリエイターたちが年をとってからの方が良いコピーが書けると言っていたのは、こういうことなのだ。
昨夜もいま抱えている案件でとても良いフレーズを枕上で思いついた。もう電気を消していたので、メモはしなかったが、こんなに明確に面白いアイデアだから忘れるわけはない。翌朝に早速企画書に仕立てよう!と思いながら眠りについた。
ところが、である。朝起きたら、その良いフレーズとやらはすっかり忘却していて、どうやっても思い出せない。本当に思いついたのか、それとも夢の中の出来事だったのか。
三上の法則を、なかなか使いこなせないでいる。


終わることのない旅のゆくえ MARUYO HOTEL semba【今日の地球】


三重県桑名市。名古屋から車でも電車でも30分ほどの距離である。そうなると大都市名古屋のベッドタウンとなるところだが、実際にベッドタウンかどうかは別にして、おそらく桑名の人はその呼称を好まない。桑名は宿場町、城下町、そして港町として発展したところで、経済と文化が両輪で支えあって育まれた歴史がある。外に出なくとも、仕事も住処も遊びも、桑名でこと足りるのである。
とはいえ、外の水は飲んでみたいと思うもの。桑名市に生まれ育った友人は、大学から東京へ移住して長きを過ごし、その後パリ、京都へと拠点を増やしていったが、2020年6月21日夏至、新月の日に桑名に新たな「場」をオープンさせた。
それがMARUYO HOTEL sembaである。佐藤武司さんの高曽祖父が、桑名市船馬町で材木商である丸与木材を起業し、氏の祖父の兄弟が戦後すぐに良質な木材を贅沢にふんだんに用いた家を建てた。そして2020年。末裔である氏が、その築70年超の民家に手を入れ、ラウンジ・ツインルーム2室・広いリビングダイニングを有する一棟貸しホテルへと蘇らせたのである。
氏の妻であり名古屋市内でgallery NAO MASAKIを主宰する正木なおさんが空間のプロデュース及びアートディレクションを、氏のご母堂であり名古屋市内でフラワーショップAtelier Nouveauを主宰する佐藤志津さんが館内の花を手掛けられている。

先週末、わたしは友人3人とともに、このMARUYO HOTEL sembaで1泊2日の時を過ごした。この2日間で、いろんなことを考えた。旅のありよう、場の感じ方、時の過ごし方…..。コロナ渦によって、人の考え方や価値観が大きく変わろうとしている時代となり、わたしたちの旅はよりパーソナルなものになっていくだろう。パーソナルというのは、個別対応とか個人旅行といった従来のサービスのことではなく、たった1人の心の中に、誰にも邪魔されない形で残されていく記憶と経験がなによりも大切となることを指している。そのためには、旅の舞台であるホテルが、わたしたちと共に変化してくれる(別の言い方をするならば共に成長してくれる)場でなければならない。
MARUYO HOTEL sembaは、先述のgallery NAO MASAKIのなおさんが館内のアートディレクションをしており、一つひとつの作品が存在を消しながら存在するという矛盾を内包している。鑑賞者を疲れさせない上に、共にいることの心地よさを与えてくれるのだ。これらアート作品は観る方のわたしたちが行くたびに感じ方が変わってゆくだろうし、MARUYO HOTEL sembaそのものもその空気を変貌させてゆくはずだ。わたしたちの内省を促し、あらたな旅心を刺激する場として。


オーナーの佐藤武司さんと正木なおさんご夫妻

ロブマイヤーのトラベラーグラスを全員持参し、シャンパーニュで乾杯

マルヨホテルの周りは、日の出や柿安本店、船津屋、歌行灯など名店揃い。ですが、この日の夜は、この空間でどうしてもゆっくりお食事したくて、テイクアウトをお願いしました。以前、オーナーに連れてっていただいた地元民に愛される小さな名店のステーキに惚れこんでしまったため、友人にもあの味を食べさせたくて。結果、大成功。友人たちにも喜んでもらえました。

窓を額縁に見立てて、外の景色の移り変わりを楽しむ

各部屋にシャワーはついていますが、お庭には露天風呂が。独りでゆっくりお湯に入り、考え事をするにはピッタリの場所。お庭やお部屋が一層美しく浮かび上がります。今度は朝酒と朝風呂しようと決めました笑

朝ごはんは、パティシエが作るクロワッサンやブリオッシュ、ヨーグルトにシリアル、しぼりたてオレンジジュースなどで。


らっきょうは待ってくれない【今日の地球】


らっきょうの季節、である。
先週末のこと、私は50キロのらっきょう漬けを期せずしてやることになった。
正確にいうと、らっきょうを漬ける約束は確かにしていたが、まさか50キロもの量になるとはつゆぞ思わなかったのである。
今から2年半前、惜しまれながら閉店したふぐ料理屋があった。そこの女将が、かつての常連客から「焼きふぐについていたらっきょうがどうしても食べたい。ふぐはもう無理なら、せめてらっきょうだけは漬けてほしい」と懇願されたのだそうだ。「だから、らっきょう漬けるの手伝ってよ。うちにはスタッフがいないし他に頼める人がいないから」と女将は私を説得してきたというわけだ。いつもお世話になっている女将のいうことなので断れない。どうせヒマしているのだし、いいよ!と二つ返事で了承したのが5月のはじめのことだった。

「土曜日の9時に、らっきょう・保存瓶・塩・酢・砂糖・唐辛子がマンションに届くからよろしく」と女将から連絡が。女将と私の共通の友人も加わってらっきょうを剥くのできっと午前中で終わるだろうと思って、私は午後から予定を入れていた。それが愚かな予想だとわかったのは、朝9時に八百屋さんの車の荷台で、5箱のらっきょうを見たときだった。1箱何キロですか?と聞くと10キロとのこと。合計50キロである。
それから延々、とにかくらっきょうを剥く。剥く。剥く。私は午後から予定があったので、女将たちを我が家に残して出かけ、17時に戻ったら、疲れ果てた顔で女将が言った。「あとの残りあんた1人でできる?」と。何キロ残っているのか確認するのも恐ろしかったので、とにかく女将たちには帰ってもらい、そこからは私がひたすら剥くことに。

私に課せられたのは20キロのらっきょうだった。24時までやって、あとは翌日にしようと決めてとりかかったのだが、22時を過ぎたあたりから、あろうことか袋の中のらっきょうが、青い芽を伸ばし始めたではありませんか!これでは青臭いらっきょうになってしまう。まずい。明日に作業を延ばすわけにはいかない。せっかく鳥取から第1級の大きならっきょうが届いたのにこれを無駄にはできないので、それから延々と朝の4時までかけて、らっきょうの皮を剥いた。
仕事の締め切りは、待ってもらえる(こともある)けど、らっきょうの成長は待ってくれない。日が昇る前までになんとか剥き終えて塩漬けしないと、らっきょうが朝の光を浴びて光合成を始めるんじゃないかしらと妙な恐怖心にかられながら、ひたすら剥いた。
肩こりと腰痛と睡眠不足というおまけはついたものの、翌日には無事に甘酢に漬けて完成。今、我が家はらっきょうの瓶が18本ほど並んでいる。
●10キロのらっきょうを剥くのに1人でやると約4時間かかること
●一日4時間程度が限界であること
●ちゃんと計画的に香盤表を作らないとエライコッチャ、ということ
●らっきょうは22時すぎるといきなり芽を伸ばすということ
覚え書きにして、女将に進言してみようと思う。
そんなわけで、しばらくはらっきょうは見たくないです。らっきょうのような頭のおじさんにも会いたくないです。らっきょうみたいな頭の方、ごめんね。ちょっと待っててね。


ある日どこかで【今日の地球】


先月のこと。映画関係の方へのインタビューで、おうち時間を楽しむための映画を紹介して欲しいとお尋ねしたところ、『ある日どこかで』が一番に挙がった。これは、1981年公開のアメリカ映画で、主人公がタイムスリップして物語が展開していく幻想譚である。公開当時は興行成績もふるわなかったようだが、根強いファンが今も多く、カルト古典として好まれている。実はこの映画を学生時代に偶然テレビ放映で初めて観て以来とりこになってしまった。
狂おしいほどにせつなくてたまらない物語、そしてどこまでもメランコリックなジョン・バリーの音楽。
どうしても手元に置きたくて、10年ほど前にDVDを買って繰り返し観ており、サントラ盤CDも2種類手に入れて愛聴している。

ここからはネタバレになるけれどご勘弁。
過去にタイムスリップした主人公は、女性と恋をするが、ある障害物のために、突然その時間旅行から引き戻されてしまう。その瞬間、主人公は愛する女性の目前からいなくなる。つらいシーンである。

なぜこの映画のことを書いたかというと、先日、時間旅行から無理やり引き戻されるような感覚を私も味わったからである。コロナ自粛で仲間との食事の約束がキャンセルになる中、友人たちと馴染みのお店からお料理をテイクアウトして、リモート飲み会をすることがあった。

画面に映る友と会話しながら、同じ料理を食べるということは、遠く離れていても一体感があり、今までにない食事の面白みを発見できてとても楽しいものである。

ところが、我が家のマンションでネット使用が渋滞していたからか、私だけそのリモート飲み会のラインから突然外れる現象が起こった。ネットワークが不安定なため、再度やり直してください、というアラートが入る。何度試しても、数分で私だけが静止画となり、私の音声が届かなくなる。みんなから「マリコさ〜〜〜〜ん!」と呼ばれても、私の顔はフリーズしたまま。そのうち突然画面が真っ暗になり、シャットダウンとなってしまう。

何度かこれを繰り返すと、さすがに疲れてしまって、そのうち自主リタイヤ。みんなも同じものを食べているんだなぁと想像しつつ、美味しいテイクアウト料理を味わった。1人が好きな私にとって、それはそれでとても楽しいことだったのだけど、そのシャットダウンした時の様子が、前述の『ある日どこかで』の時間旅行からの引き戻しシーンを想像させたのである。

『ある日どこかで』は、主人公にとってどこまでがリアルな話なのか、想像の世界なのかはわからない。もしかすると、主人公の長い夢の話かもしれない。それは観る人の受け取り方で様々な物語となるだろう。

それと同じで、もしかしたら私がシャットダウンされたリモート飲み会は現実とは別の世界で起きたことではないのか?そもそもコロナだってテレビの中だけの出来事で、現実世界で起きていないかもしれない。そうだったらいいのに。
その夜は、そうやって現実と妄想の世界を行ったり来たりしたからか、それとも1人で杯を重ねたからか、いつもよりずっと酔いが早かった。


最愛の父が宇宙旅行に【今日の地球】

最愛の父が、宇宙旅行に出掛けました。
いつ還って来られるかわからない旅です。

一昨年の春、父は胆管癌を宣告され、今年の春には肺への転移が見つかりました。若い頃はスポーツ選手で、鍛え上げた体力だけは自信を持っていた父でしたが、春以降、少しずつ体力がなくなり痩せていきました。が、スポーツマンスピリットというか、ど根性というか、とにかく病気に負けてなるものかという気力は最後の最後まで持ち続けていました。生きることへの執着と気力には、本当に驚かされ、生き様と死に様を同時に学ばされたように思います。
晩年は家庭菜園に目覚め、緻密な計画を立てて、晴耕雨読を実践していました。今、私は通夜の会場で、父の家庭菜園の計画表と畑の設計図をみて、愕然としているところです。そこには、天気、その日の作業内容がびっしりと細かく描かれ、前年の計画表と比較をしながら、常に工夫を重ねていることが読み取れます。またその計画表は日記の要素も兼ね備えており、「万理子帰宅」「家族で山代温泉へ旅行」「万理子東京へ」といった家族の行動まで記されていました。(マリコがペンネームで、万理子は本名です) ちなみに癌を宣告された日付を見てみると、「癌宣告される」と記されており、その一文を書くことはさぞ辛かったであろうと思うと、なんともやるせなく悲しい気持ちになっています。

ここには、私が子供の頃の父との交流で、心に残っていることを書き留めておこうと思います。それは日常生活の中にこっそりと父が仕掛けてくれた独自の教育のことです。私がまだ小さな子供だった頃、タバコを嗜む父は帰宅して食事をすませると、決まって居間にどっしりと座り、私の方を見て「タバコとマッチと灰皿と」と言いました。私はそれを言いつけられるのが好きで仕方がなく、その3点セットを得意げに父に持っていき、頭を撫でてもらっていました。
実はここには、父なりの私への教育が施されていたのです。つまり、タバコを吸う人にはマッチと灰皿が必ず必要で、タバコと言われたらマッチと灰皿も一緒に用意をしなさい。それくらい気の利く人間になりなさい、という意味でした。ところが、「タバコとマッチと灰皿と」この言葉に込められた父の思いに、気がついたのは30歳を過ぎた頃のことでした。なんという間抜けな娘でしょうか。恥ずかしくて父には「気がついてるよ」と言わないままに、父は逝ってしまいました。今、通夜の間に、父にそっと耳打ちしようと思っています。でもきっとこれからも「あ、あの時の父の言葉にはこんな意味が込められていたんだ!」と気がつくことがあるでしょう。その度に私は、自分の間抜けさにがっかりしながらも、ずっと父とともに生きていくことになるのだと思います。

パパ、間抜けな娘に育ってしまったけど、
私はパパの娘に生まれたことを、心から誇りに思っています。
長い間、ありがとうございました。


冬だけじゃなく夏も来たい、かに吉【今日の地球】


鳥取かに吉。
ここの冬の蟹料理に惚れて2年。
あの蟹料理の精神性があるんですもの。
夏のお料理にも興味津々で
有馬温泉までいったので半日お休みとって、鳥取まで一人旅。
どのお皿も、口の中の残香がはかなく、なのに存在感があって、いつまでも香りを追って味わっていました。
たとえば、カレイの天日干し。
今までの干物概念がくつがえされる。
ひと口目、
実だくさんのお吸い物たべてる感じ。
ふた口目、
香りが口と鼻に広がって
みくち目、のみこむのが勿体無くて。
頭と尻尾は、
お魚のクロワッサンかパイのような軽やかさ。
あわびはどこのフレンチにも負けてなく
干し椎茸は、もう一度命をふきこんだその丁寧さに脱帽せざるをえませんでした。
もう冬の蟹だけじゃなく
夏の鳥取にも来ないといけません。
改めてここに導いてくださった
益博さんにお礼申し上げます。
大将、魂のこもったおいしいお料理をありがとうございました。
#鳥取かに吉
#かに吉
#取材の帰りに鳥取に寄ってしまった
#ラルム外食
#なんだけど感激で震えた