今日の地球

母が旅立ちました【今日の地球】


師走の寒い朝、母が宇宙旅行に旅立った。

母は、いろんな意味でネジが激しくぶっ飛んでいる人だった。乳母日傘で育てられており、子供のころは文字通り専属の乳母がついていたそうで、学校で食べるお弁当は朝作ったものだと冷めてしまうため、おなかを壊すといけない、と、乳母が出来立てのあたたかいお弁当を学校まで手運びして食べさせていたらしい。今の時代では考えられないような環境で暮らし、大人になっても世間知らずのままだった。時に社会通念がまったく通じないところがあり、ネジがぶっ飛んでいるというのは、そういうことである。
わがままいっぱいの過保護に育てられた母が、天衣無縫な、別の言い方をすれば野性的な父と結婚して生まれたのが、姉と私である。父母ともに昭和ヒトケタ生まれのいわゆる戦中派。その当時の日本人がみんな持っていた矜恃のようなものを、わたしたち姉妹は知らず知らずのうちに教えられて育ったように思う。
母の場合は、昭和最後の旦那衆と呼ばれた祖父(母の父)への絶大なるファザコンがあったためか、とにかく振舞うことが好きな人だった。たとえば、我が家の到来物はよその家にお裾分けしてしまうので、わたしたちの口には入らない。小学生のころの夏休みのこと。果物を専門に扱う会社の方から、父のところに夏の果物がたくさん届く。スイカは週に2度は届いていたのではないかと思うが、それが全部よそにまわされてしまうのだ。クラスメイトの家に遊びに行ったら、そこのおばさんが冷えたスイカを出してくれたので、「スイカ食べたくて仕方がなかったの!うれしい!」と喜び勇んでスイカをぱくぱく食べると、おばさんが「このスイカ、まりちゃんのお母さんからいただいたんだよ」と言うではないか。帰宅して母にそのことを話すと、ケラケラと笑って、明日買ってきてあげるね、と分かりやすい嘘をつかれたため、悔しくて父に訴えたところ、友達が喜んでいるならいいじゃないかと、また納得のいかない諭され方をしたのだった。
そんなおかしな振る舞い方をする一方で、物を大事にすることに関しては、とても厳しかった。使い捨てるものは買わなくていい、たとえ高くても長く使えるものを買うようにといつも言われてきた。そのしつけのおかげか、まな板やお鍋は大学から一人暮らしを始める時に母が揃えてくれたものを今も使っているし、母の嫁入り道具のほとんどが大切に残されているので一部を私が受け継いでいる。
私が大学入学で一人暮らしをする時、引越しには母がついてきてくれたが、家財道具が部屋におさまり、大学の入学式を終えると、母は帰っていった。私は東京駅のホームまで母を見送ったのだが、その時、母は人目を憚らずに大泣きして、涙を流しながら新幹線に乗った。席についてからも窓の外の私を見つめて泣き続けていた。西陽のあたる新幹線の窓から見えた母の泣き顔、あの時の光景は忘れられない。
そして、母は花を生けることがとても上手な人だった。花屋さんで買ってきた花を、私が池坊的に生けると母は褒めてくれたが、私には庭に咲いた茎が曲がった花はうまく生けられない。それが不思議と母の手にかかると、野花は自然にあるように花入れに美しくおさまるのである。


結婚前に習い事はひととおり仕込まれた母だったが、日本舞踊は祖父が踊りの師匠の後援会長をしていたことから、舞踊の舞台には何度も出演している。その時のおびただしい数のモノクロ写真が今でも残されているが「茶音頭」という舞踊を踊った時のことは何度も聞かされた。お茶の点前をしながら踊るので、母いわく「子供にとっては本当に難しくて覚えられなくて泣きながら練習した」のだそうだ。この写真のお点前をしているのが母なのだが、おそらく茶音頭のためのお茶のお稽古だったのだろう。すました顔をしているが、内心は嫌で仕方がなかったのだと言っていた。それでもそうしたお稽古ごとのいろんな所作が身についていたので、たとえば花を生ける時の手に現れていたのではないかと思う。お茶に関してはさほど熱心にお稽古しなかったようなのだが、ことあるごとに「あの人はお茶があるね」とか「この空間ってお茶があるよね」と、“お茶がある”という表現をしたのも母独特の言い回しだった。私も若い時には、その意味がよくわからなかったのだけど、中年をすぎつつある今、“お茶がある”ということの意味がすこしだけわかりかけているところだ。

父が亡くなってからは認知症を患い、少しずつ子供に還るように無邪気になっていった母。1週間ほど前から食べられなくなり、立てなくなり、すべての機能が緩やかに止まりはじめた。最後は姉と私を前にして、声にならない声を力一杯出した後、眠りながら安らかに旅立った。もともと色の白い人だったが、今、隣に眠っている母は、今まで見た中でもっとも美しく、シミひとつない雪のように真っ白な肌と、少女のように透き通った心で天に召された。葬儀までの時間は、昼も夜も母の隣でずっと過ごし、思い出話を姉と語っていきたいと思う。