LARMES Column

わたしの遠野物語【今日の地球】


柳田國男による遠野物語を読破してからのぞんだ遠野への旅は、佐々木要太郎氏が著した本『遠野キュイジーヌ』を読み閉じることで一旦の終わりを迎えた。一旦、というのは仮初の、という意味で、必ずまた遠野を訪れるであろうという確信のもと、ここに夏の思い出を記しておこうと思う。
佐々木要太郎さんとは知り合ったのは、数年前の東京での食事の場で友人から紹介を受けた時だった。その時一緒にいた別の友人と必ず遠野の佐々木さんのオーベルジュに行こうと約束したのに、友は先に空へと旅立ってしまった。その思いだけで数年が過ぎ、今夏やっと遠野の旅が実現したのだった。
今回の旅の友は、気心も胃心も知れた仲間なので気楽なノープランの旅。花巻ではじめてのわんこ蕎麦に挑戦し、宮沢賢治の足跡をたどり、にわかイーハトーブファンとなったところで遠野入り。
佐々木要太郎さんのオーベルジュ『とおの屋 要』は、遠野駅からほど近い街中にある。一歩足を踏み入れた瞬間に、ここは異空間であるとはっきりわかるのに、その境目が曖昧模糊としているためか、わたしたちはごく自然にその中へと誘われる。
家具も絵画もなにもかもが、主張せず、かといって控えめなわけでもなく、この空間の創り方を見るだけでも、佐々木さんの感性が伝わってくるようなオーベルジュであった。

佐々木要太郎さんは、米の農家であり、その米から作るどぶろくの醸造家であり、野菜や魚や肉を発酵させて料理する発酵料理人。これらすべてが彼の職業である。
佐々木さんにとっては田圃を耕すことがすべての基本なのだが、これは”お百姓さん”としては理想の生き方ではなかろうかと思う。お百姓さんというのは、常に百の仕事をしなければいけないから百姓と呼ぶという説を前に聞いたことがあるが、佐々木さんをしてお百姓さんの理想の生き方と評するのはそういう意味である。前述した職業の数ではまったく足りない。おそらく軽く百以上はあるだろう。

毎日、田圃をみつめ、空を眺め、晴れていれば食べ物を干して保存食をつくり、雨なら発酵食に手を入れ、土とともに生きる。

なにか説明を聞いたわけではないが、彼の発酵料理を彼のどぶろくとともにいただいて、佐々木要太郎さんの一年365日の朝から夜まで費やす時間を感じ、想像し、楽しませてもらった。発酵料理も素晴らしいものだった。農家や醸造をやりながら、ここまで料理に向かう時間と頭がどこにあるのか???心底、驚いた。

たった一泊二日の旅だったが、遠野の旅はいろいろな内省を促してくれたように思う。これからの日本の生きる道は、日本の里山にあるのではないだろうか。佐々木さんは田圃に立つことからすべてを始めた。田圃の周りにある木の実や、畦道にはえる草を見つめた。
脚下照顧。
宝物は自分達の足元にある、ということを佐々木さんが教えてくれた気がする。


どぶろくを何度お代わりしたことか。これ以外にも貴重なものをたくさん。ボトル写真はアップを控えます。

シグネチャーメニューの”芋サラ”


田圃にはえていた蓬で作った焼き麩 バタームニエルして酢味噌を添えたもの

南部小麦のパスタ、朝どれアスパラガスと自家製ベーコン

豆腐の味噌漬け、三年熟成の豆やら納豆やら、豆いろいろ

ホタテの糠漬茶漬け

アートはさりげなくウォーホル

朝ごはん。左のおかゆさんは、どぶろくを作る遠野1 号というお米の玄米。お味噌汁はいわし出汁。丸干しが美味しかった。お揚げさんも。


閖上の赤貝【今日の地球】


静養という大義名分の怠惰なお正月を過ごしながら、
入院騒ぎで年末にやれなかった2021年の振り返りをしている。

貴重なお席を予約してくださる友人たちのおかげで、
昨年も美味しいものをたくさんいただいた。
記憶にしっかり刻まれた美味は数多くあり、
はじめてお邪魔したお店で思わず感嘆の声をあげたことも2度や3度ではなかった。
そんな経験の中で、今も心にあたたかく残ることがあったので、
ここに書き留めておきたいと思う。

9月の銀座。
アニキと慕っている某人と、お寿司屋さんに出掛けた時のことだった。
色艶もよく肉厚の見事な赤貝の握りを口に入れた瞬間に、昆布の味わいが広がった。
思わず目をぱちくりしていると
隣のアニキが「閖上(ゆりあげ)だね?」と一言。
お店の親方がにこりと笑う。

閖上は宮城県名取市の漁港で、良質な魚が水揚げされることで知られる町なのだそうだ。
特に閖上の赤貝は、良質な昆布の味わいや香りが出ることから、
築地、もとい豊洲ではお寿司屋さん同士の争奪もなかなか激しいのだそう。

酢の効いた酢飯がソースにように赤貝に寄り添って
なんというハーモニー、と一人勝手に陶然としていたその時
アニキが小声で話し始めた。

閖上はね、3.11でそれは大きな被害を受けて、
漁港が再開できるのか、漁はできるのか、海の魚たちは大丈夫かと
関係者からずいぶん心配されていたんだよ。
わたしも、もう閖上の赤貝が食べられなくなるのではと思っていたしね。
それから何年たった時だったかなぁ。
このお店で親方が何も言わずに赤貝を出してくれたんだけど
食べた瞬間、すぐに閖上だとわかってね。
親方の顔を見たら、親方が今みたいにニヤッと笑ったんだ。
閖上で漁が再開できたんだ!よかった、本当によかった!
赤貝を食べながら、知らぬ間に涙がこぼれていたんだよね。
今もその時のことを思い出してしゃべっていると泣けてくるんだけどさ。

アニキは目にうっすら涙をためながら、話してくれた。

生産地に思いを馳せ、作り手に敬意をはらい、
完成された料理を味わい尽くし、
言葉に出すことなく作り手と会話し、
心をこめて一期一会の食に向かうということの、
こんなにも素晴らしいハーモニーがあるだろうか。

そんな域にはまだまだ達することはできないけれど
今年も諸先輩のお導きに従って、
体を気づかいながらも、楽しい旅をしていきたいと思う。


2021年が終わろうとする今日この時に【えとせとら】

本当に今年はなんという一年だったのだろう。
3月に大切な大切な友人、7月には遊びを教えてくれた先輩、9月に物書きの先輩を、亡くした。
そして12月には最愛の母が旅立った。
親しい人がこの世からどんどんいなくなってしまうこの現実を未だに受け止めきれないまま、またあたらしい年が明けてしまう。
4年前に父を亡くし、とうとう母を亡くしたので
天涯孤独になってしまったわたしは、それでも生きてゆかねばならない。
生きてゆかねばならない、ということが
こんなにも重いことだったとは。

生きてゆかねばならぬので、体のメンテナンスをしなければいけない。
体に悪いものが蓄積して石灰化したみたいで、痛みとともに胆石が見つかった。
夏のことだった。
手術前後で1週間はお休みできるタイミングで、とドクターに言われ
年末年始なら間違いなくゆっくりできるだろうとのことで
計画的にこの時期を選び、爆弾を抱えながら半年を過ごして
年末ギリギリに胆嚢摘出の手術をした。
4年前の父が亡くなる直前には腎臓結石が見つかって随分痛い思いをしたが
母が亡くなった直後に今度は胆石で胆嚢摘出。
体のあちこちに石ができるなんて、
どこかでメドゥーサに睨まれたのかしらん。

わたしは両親が歳をとってから生まれた子供なので
同級生のご両親と比較すると親の世代がちょっと年かさである。
そんなこともあって、たとえ離れて生活していても
常に両親の体のことを気遣いながら暮らしてきたようなところがあった。
もうその必要はないよ、
と自分に言いかしながらも、やはり無性にさびしい。

養老孟司先生の言葉をお借りするなら、生きているのが一番危ない、のだそうだ。
死んでしまえば2度死ぬ心配はなかろう、というのだ。
父のことも母のことももう心配する必要はない。

死は生の延長にあるのではなく
死は生の中にあるという持論を、あまりにつらい現実で体感する一年となった。

あたらしい年が明ける前に、
ごちゃごちゃになってしまった気持ちの戸棚を整理整頓したくて
このコラムを書いた。


母が旅立ちました【今日の地球】


師走の寒い朝、母が宇宙旅行に旅立った。

母は、いろんな意味でネジが激しくぶっ飛んでいる人だった。乳母日傘で育てられており、子供のころは文字通り専属の乳母がついていたそうで、学校で食べるお弁当は朝作ったものだと冷めてしまうため、おなかを壊すといけない、と、乳母が出来立てのあたたかいお弁当を学校まで手運びして食べさせていたらしい。今の時代では考えられないような環境で暮らし、大人になっても世間知らずのままだった。時に社会通念がまったく通じないところがあり、ネジがぶっ飛んでいるというのは、そういうことである。
わがままいっぱいの過保護に育てられた母が、天衣無縫な、別の言い方をすれば野性的な父と結婚して生まれたのが、姉と私である。父母ともに昭和ヒトケタ生まれのいわゆる戦中派。その当時の日本人がみんな持っていた矜恃のようなものを、わたしたち姉妹は知らず知らずのうちに教えられて育ったように思う。
母の場合は、昭和最後の旦那衆と呼ばれた祖父(母の父)への絶大なるファザコンがあったためか、とにかく振舞うことが好きな人だった。たとえば、我が家の到来物はよその家にお裾分けしてしまうので、わたしたちの口には入らない。小学生のころの夏休みのこと。果物を専門に扱う会社の方から、父のところに夏の果物がたくさん届く。スイカは週に2度は届いていたのではないかと思うが、それが全部よそにまわされてしまうのだ。クラスメイトの家に遊びに行ったら、そこのおばさんが冷えたスイカを出してくれたので、「スイカ食べたくて仕方がなかったの!うれしい!」と喜び勇んでスイカをぱくぱく食べると、おばさんが「このスイカ、まりちゃんのお母さんからいただいたんだよ」と言うではないか。帰宅して母にそのことを話すと、ケラケラと笑って、明日買ってきてあげるね、と分かりやすい嘘をつかれたため、悔しくて父に訴えたところ、友達が喜んでいるならいいじゃないかと、また納得のいかない諭され方をしたのだった。
そんなおかしな振る舞い方をする一方で、物を大事にすることに関しては、とても厳しかった。使い捨てるものは買わなくていい、たとえ高くても長く使えるものを買うようにといつも言われてきた。そのしつけのおかげか、まな板やお鍋は大学から一人暮らしを始める時に母が揃えてくれたものを今も使っているし、母の嫁入り道具のほとんどが大切に残されているので一部を私が受け継いでいる。
私が大学入学で一人暮らしをする時、引越しには母がついてきてくれたが、家財道具が部屋におさまり、大学の入学式を終えると、母は帰っていった。私は東京駅のホームまで母を見送ったのだが、その時、母は人目を憚らずに大泣きして、涙を流しながら新幹線に乗った。席についてからも窓の外の私を見つめて泣き続けていた。西陽のあたる新幹線の窓から見えた母の泣き顔、あの時の光景は忘れられない。
そして、母は花を生けることがとても上手な人だった。花屋さんで買ってきた花を、私が池坊的に生けると母は褒めてくれたが、私には庭に咲いた茎が曲がった花はうまく生けられない。それが不思議と母の手にかかると、野花は自然にあるように花入れに美しくおさまるのである。


結婚前に習い事はひととおり仕込まれた母だったが、日本舞踊は祖父が踊りの師匠の後援会長をしていたことから、舞踊の舞台には何度も出演している。その時のおびただしい数のモノクロ写真が今でも残されているが「茶音頭」という舞踊を踊った時のことは何度も聞かされた。お茶の点前をしながら踊るので、母いわく「子供にとっては本当に難しくて覚えられなくて泣きながら練習した」のだそうだ。この写真のお点前をしているのが母なのだが、おそらく茶音頭のためのお茶のお稽古だったのだろう。すました顔をしているが、内心は嫌で仕方がなかったのだと言っていた。それでもそうしたお稽古ごとのいろんな所作が身についていたので、たとえば花を生ける時の手に現れていたのではないかと思う。お茶に関してはさほど熱心にお稽古しなかったようなのだが、ことあるごとに「あの人はお茶があるね」とか「この空間ってお茶があるよね」と、“お茶がある”という表現をしたのも母独特の言い回しだった。私も若い時には、その意味がよくわからなかったのだけど、中年をすぎつつある今、“お茶がある”ということの意味がすこしだけわかりかけているところだ。

父が亡くなってからは認知症を患い、少しずつ子供に還るように無邪気になっていった母。1週間ほど前から食べられなくなり、立てなくなり、すべての機能が緩やかに止まりはじめた。最後は姉と私を前にして、声にならない声を力一杯出した後、眠りながら安らかに旅立った。もともと色の白い人だったが、今、隣に眠っている母は、今まで見た中でもっとも美しく、シミひとつない雪のように真っ白な肌と、少女のように透き通った心で天に召された。葬儀までの時間は、昼も夜も母の隣でずっと過ごし、思い出話を姉と語っていきたいと思う。


KOUGEI EXPO IN AICHI 工芸茶会【伝統工芸の職人たち】

KOUGEI EXPO IN AICHI(第38回伝統的工芸品月間国民会議全国大会)が、11月27日から29日まで、愛知県常滑市の愛知県国際会議場(Sky Expo)にて開催された。わたしはプランナーとして、約1年前から工芸にまつわるプランニングに携わらせていただいた。わたしの名刺にはコピーライターとプランナーの2つの肩書が入っているが、その2つが一緒になる仕事は少ない。KOUGEI EXPO IN AICHIにはプランナーとして入っていたので当初はコピーを書く予定はなかったものの、企画会議では「そういえばコピーライターだったよね」という感じで、はずみでキャッチコピーを書いたので、珍しくも2つの肩書が同時並行することとなった。このポスターの「百年の恋、千年の愛」というテーマが、わたし作。良い工芸品は親子孫の3代に渡って使われ、やがて朽ちることがあってもそれはいずれ自然に戻る。その自然の中からまた次の工芸品が作られてゆく、という時間軸を意味するもの。そして、使い手が工芸品に恋をする百年、作り手が工芸品に愛を注いできた千年に想いを馳せる、という概念を表現しているのだけど、ポスターや映像だけでなく、会場のあちこちでこのテーマを目にすると、知らぬ間にわたし自身が工芸品に魅了された人生を送ってきたのだなぁと自らをふりかえることになった。


そしてプランニングの中でもっとも時間と手間をかけて心をこめて準備してきたのが「工芸見立て茶会」だ。経済産業省から認定を受けた愛知県内15の伝統的工芸品の産地をめぐり、工芸士の方々から作品を見せていただき、話し合い、茶の湯の道具として”見立てる”というチャレンジをして、2つの茶席の道具組を完成させ、3日間に渡って茶会を開催したのである。監修は紅雲庵の稲垣紹紅先生にお願いした。産地を訪ねる旅が始まったのは、6月くらいだったか。職人さんの工房でお話を聞きながら、その工芸品のもっとも特徴的なポイントはなにか、茶の湯に使うとしたらどんなものがあるのか。そして小さなものへの眼差しを持ち続けて、工芸品と茶の湯を結び付けてくださった。愛知県の15の伝統的工芸品のうちの3つが三河仏壇・名古屋仏壇・尾張仏具の仏壇系、そして別の3つが常滑焼・赤津焼・瀬戸染付の陶器系、さらに3つは名古屋友禅・有松鳴海絞・名古屋黒紋付の生地系と、極端に偏った工芸品グループだったため、いずれをも平均的に道具に取り入れるというのは本当に難しい課題だったのだ。しかしそこは”百年の恋 千年の愛”のテーマのごとく、稲垣先生が愛情をこめて道具組をつくりあげてくださったおかげで、2つの茶席は素晴らしい仕上がりとなった。稲垣先生、長い期間に渡り、ありがとうございました。参加された方からは「本当に面白かった」「お茶を楽しいと思ったのははじめて!」「よくぞここまで見立ての茶会を仕立てられましたね!」などと声をかけていただいた。愛知県の工芸の魅力を茶の湯という形で多くの方にお伝えすることができたと思う。
無事に茶会もそしてKOUGEI EXPOも終了し、片付けが終わって搬出を待っている間、この2つの茶室は、あっという間にあっけなく解体されていき、気がつけば茶室はどこにもなかった。さびしいなぁという思いと同時に、なぜだか頭の中はドリフの「8時だよ!全員集合」でセットが撤収される時に曲がリフレイン!
https://www.youtube.com/watch?v=2ur1bx12NTk

そうか!わたしはKOUGEI EXPOを通じて、茶の湯キャラバン・工芸キャラバンをしていたのか!と気がついた。また次なる企画で、お茶と工芸を楽しむお席をつくっていけばいいのだ、と自分に言い聞かし、常滑の海風にさらされながら会場を後にしたのだった。

以下、工芸見立て茶会とKOUGEI EXPOの様子を写真で紹介させていただく。


立礼席の床。

掛け軸箪笥のコーナー

立礼席の点前座をお客様側から見た図

立礼席の点前座を内側から見た図

プレゼンテーションの茶席は、表千家の松風楼を写したもの

点前座

茶会では稲垣先生から見立ての説明トークをしていただいた

初日に水屋の皆様の記念撮影。稲垣先生は、どこも絞っていない有松の竹田嘉兵衛商店のお着物に絞りがポイントになった帯で。

最終日の稲垣先生のお着物姿。2日目は痛恨の撮り忘れ。

1日目のお点前は松尾流の三宅宗完先生。別名・沈黙の貴公子。

2日目のお点前は表千家・志津直行さん。普段はメスを持っておられますが、この日は茶杓を。

3日目は表千家・高橋雅俊さん。袴がよくお似合いでご立派なお点前姿でした。

松風楼写のお席の会記

立礼席の会記

掛軸箪笥コーナー

エントランスすぐの工芸品を現代生活にとけこませた展示

エントランス近くの工芸プレゼンテーションコーナー


第一回 中日落語会【伝統芸能の継承者たち】

第一回中日落語会が5/23(日)に開催されて2週間がたち、コロナ感染者をだすことなく無事に終了できた。やっとここでコラムアップができるのでご報告とともに記録としてここに諸事を記しておくことにしよう。
中日落語会の構想は、実に5年ほど前にさかのぼる。落語評論家の山本益博さんが年に4回開催されている落語会にお邪魔して、そのあまりの面白さと奥深さに落語初心者のわたしは驚いてしまい、同時にこの正統な江戸落語を名古屋でも聴いてみたい、できれば多くの人にも聴いてもらいたい!と思い始めたのがキッカケだった。それから本当にいろんな障壁を乗り越えて、中日新聞社芸能事業部のご努力のおかげでやっと開催にこぎつけたというわけだ。
わたしが、東京の真ん中で江戸の昔から継がれてきた話芸を聴いた時、すぐさま頭に浮かんだのは、落語は生きるヒントを与えてくれるということだった。落語は大笑いするだけではない、人情噺には涙するだけじゃなく、今も昔も人はみな同じことで苦しみ悩み、愛しあったり助けあったりしてきたのだということを、目の前で繰り広げられる物語からあらためて知るのである。そして噺家は、扇子と手拭いを扱いながら、老若男女を演じ分け、観客は、自らの頭の中で物語を想像して映像化し、物語の中へと入っていく。演者と客が心をひとつにしてともに作り上げる芸能なのである。

そして山本益博さんプロデュースのなによりも大きな特徴は、落語会全体のストーリーを組み立てて、そこから演目を噺家さんにあらかじめ依頼するところにある。今回は中日新聞社がはじめて取り組む名古屋での落語会なので、落語をはじめて聴く人も聴き慣れている人も惹きつけられるような番組構成を考えてくださった。
 お菊の皿〜柳家喬太郎
 仲村仲蔵〜春風亭一之輔
 あくび指南〜春風亭一之輔
 おせつ徳三郎〜柳家喬太郎
この番組構成がいかに面白く意味があって、多くの笑いと涙を誘ったかについては、来場くださった方々が理解してくださっていると思う。



会場ではコロナ対策を万全に。消毒・検温・マスクはもちろん、楽屋と客席の行き来を最小限にし、私語自粛案内カードを係員がしめしながら客席を回って歩いた。山本さんをはじめ、師匠連、前座さん、囃子方さんにもソーシャルディスタンスをお願いした。そんな緊張感あふれる中、舞台袖で聴いた喬太郎師匠と一之輔師匠の全身全霊をかけた噺に、わたしは泣き笑い、また笑って泣いた。
落語会は無事に緞帳を下ろし、師匠連をお見送りし、会場を片付けて、最後にプロデューサーである山本益博さん夫妻を名古屋駅までお送りした。新幹線の改札口で手をふってお別れした途端に緊張がほぐれたのか、おなかが急にぎゅるぎゅるいいだした。昔から心配事やら緊張事があるとおなかを壊す癖があるわたし。閉店時間が迫る高島屋に急ぎ足で向かうと、ロープを張って閉店しようとしていたスタッフの方に、真っ青な顔をして「トイレ貸してください」と泣きながら頼み、ほぼ無理やり、ロープをはずしてもらってトイレに直行。わたしの第一回中日落語会は、高島屋のトイレの中で終演を迎えた。


次回は8月29日に開催される。こちらは山本さんプロデュースではないが、花緑師匠や白酒師匠、白鳥師匠など人気噺家がそろうので、これもまた楽しみ!チケットは中日新聞社のあたらしいチケットサービス・BOOWOOで販売中。ご興味ある方は私もすこしチケット預かりがあるので、おっしゃってください。


ベルばら茶会、開催しました【えとせとら】

本席のお軸は、岡本太郎による「愛」。ベルばらといえば、♬愛それは尊く、愛それは気高く♬です

「ベルサイユのばら」を読んだのは、すでに連載が終わってしばらく経ったころで、おそらく小学校の高学年くらいになっていたと思う。オスカルとアンドレの純愛に涙し、革命へと動いていくフランス社会の身分制度に心をいためる少女時代を送った。以降、何百回と読んだため、場面描写や台詞は細かく覚えており、今でも一年に数回は読み直しているので、筋金入りのベルばらファンだと言ってもいいだろう。ベルばらを通じてフランスという国に漠然と憧憬の念を抱き、大学進学でフランス語学科を選んだことに、ベルばらが起因していることは間違いない。そんなわたしが、いつか「ベルばら茶会」を実現したいと考えるようになったのは、一年ほど前だったか。お茶のお稽古でお世話になっている稲垣紹紅先生、通称・紅雲庵あかね先生から、その時々のテーマに沿った茶の湯の道具組を教えていただくたびに、膝を打ちたくなったり、思わず嬌声をあげたり、深くうなづき感嘆していて、時に洋物を道具に組み込まれるセンスに惚れ惚れしているので、ベルばらと茶の湯をくっつけちゃったらきっと面白い!と思い描いてきた。そんな無茶なお願いをあかね先生に相談したところ、ご快諾いただき、去る5月9日(日)に、金鯱がお留守になっている名古屋城にて、ベルばら茶会を開催することができた。道具組をどう考え、組み立てていくか、そこにベルばらの要素をどう取り入れるか、やりすぎはダメだけど分かりやすさも大事。あかね先生と何度も打ち合わせを重ねながら、茶会を作り上げる過程を学ぶことができた。
心配はもちろんコロナ問題だった。対策を万全にしながら、一席の人数を抑え、換気と消毒をしつこく、次客以降は紙製のディスポーザル茶碗、お菓子はパッケージごと、などなど、風情に欠ける点はあったけれど、それでもなんとか開催にこぎつけて、多くの仲間たちに楽しんでいただけて、本当に良かった。
以下、道具組の一部と、お越しいただいた方々のベルばらコスプレ的なご紹介をば。薔薇の帯、着物、半襟、バッグ、バッジにチーフ、リボン、マスク。エッフェル塔やトリコロールを意識してくださった方もいて、みなさんがベルばらというテーマを楽しんでくださったことが伝わり、とても嬉しかったです。
ちなみに私はあやめ色の着物(フランス王家の紋章がアイリスなので→百合と言われているがそれは間違いとのこと)にあやめの帯、鍵の形の根付(ルイ16世が錠前作りが趣味だったので)を帯に挿して。ただし画像はございません苦笑。


オスカルの便箋で会記を書きました

こちらは寄付

香合は、プチトリアノンの池に遊ぶ白鳥。紙釜敷はトリコロール

花入は、ルイジョゼフ王太子が亡くなった時に葬儀資金のためにフランス王家が売却した銀の燭台を、この度買い戻してきたもの笑。そして花は、オスカルフランソワと名のついた薔薇。

点前座。風炉先屏風はベルサイユ宮殿、長板は鏡の間を表現。南鐐つまり純銀の風炉釜に、ボヘミアの水差の美しさに皆さんから感嘆の声が上がりました。

お菓子は、ハートにくりぬかれた薔薇の花びらが入った葛菓子。 川口屋さんに特別誂え。菓子器はドレスデンのマリー花文字。このお菓子の下にMの美しい文字が現れます。

料亭志ら玉、料亭香楽から、大女将、若女将、宗平社長にお越しいただき、とても楽しいお席に。

金工作家の長谷川まみさんは、オスカル風!のブラウスに、馬をイメージしたブローチ、もちろんまみさんの作品で。

マリー・アントワネットが愛したと言われる伝統的なフランスのデザイン生地で作られたマスクとリボンベルトでお越しくださいました。


ばいばい、かんべちゃん【今日の地球】


昨日の打ち合わせで、長年の仕事仲間から「なにがそんなに悲しいんだ?」とのっけから言われた。自分では気がついていなかったが、自然に涙を流したまま仕事場に向かっていたようだ。その前日の3月9日、友人から「かんべちゃんが亡くなった」と電話があった時、誰がそんな悪ふざけをしているんだろう? 冗談でもたちが悪いと思った。もしかして今日はエイプリルフールだったっけ?とカレンダーを見直したりもした。盟友・神戸宏樹が急逝した、と頭で理解できたのは、数時間たってからだった。
神戸宏樹とは、年数こそ8年たらずだったが、本音で喧嘩ができる貴重な友人付き合いをしてきた。姉弟のような、兄妹のような、時に母のように、父のように、言いたいことを言い合える仲である。彼が会社を辞めようと思うと相談された時、わたしの恋愛がらみの話を聞いてもらった時、ある案件を2人で引き受けてやっていこうと話し合った時。いろんな場面で彼が見せる知性は私を驚愕させた。実はただのバカボンだと思っていたので(実際、彼はそう装っていた)、そのことを彼に伝えると、傷ついたそぶりも見せず、ケラケラと高笑いをして見せた。この人の奥底はかなり深いけれど、それをまったく見せずにいられるのは何故なのだろう?と、かえって興味がわいたほどだった。
仕事柄、多くの人をインタビューし、その人柄を探っては文章化してきた経験から「あなたは稀有なSキャラである」と本人の前で結論づけたところ「まったくその通りだ」と答えが返ってきたこともあった。そして、経済的な差異とか出自の問題とは別に、ほとんどの人が根底に抱えている些細な卑しさのようなものを、まったく持ち合わせていないのが神戸宏樹である。わたしは彼から卑しさのかけらも感じたことがなかった。

ある夜のこと。彼と私の会話。
「かんべちゃん、美食もいいけど、今のままの食生活では本当に体が心配。あなたの財布を狙ってたかってくるような人と深夜まで飲むのはもうやめなさい。その人たち、あなたの健康を考えているならそんな飲み方させないはず。本当にあなたの体を考えてくれているなら、12時には帰さないと。そんな奴らとは縁切りしなさいよ!」
「マリコリーヌ、いま、何時か知ってる?」
「知らんわっ」
「夜中の2時なんだけど」
・・・・・・・・・・・・・・・。

これ以外にも、実にたくさんの語り合い、そして喧嘩やら、まぁいろいろな思い出がある。いつか私が公私ともに大変なことがあり、ひどく落ち込んで鬱気味になっていた時、朝いきなりマンション前にやってきて、ドライブに行こうと誘ってくれたことがあった。私が大好きなトンカツを食べに連れて行ってくれたのだった。なにもしゃべらなくていいから、と、彼が一人でずっとしゃべっていた。私の仕事にも多くのアドバイスをくれた。説教マニアだったので、方々で説教しては女の子を泣かせていたみたいだった。検討はずれな説教が多かったけど、時には真実をついた深い助言をくれることもあって、その度にハッと気づかされることになり、いつかお礼を言おうと思っていたのに、彼は長い旅に出てしまった。
美味しいものが大好きで、いろんなお店で食事とワインをご一緒した。旅にもよく出掛けた。東京には数知れず、福岡や小倉、京都、鳥取には毎年、富山、滋賀、と思い出は尽きない。オマージュ、オーベルジーヌ、紀尾井町三谷、鮨みずかみ、かに吉、アニス、ほうば、エッレ、すきやばし次郎にも行ったなぁ。。。
コロナが収束したら互いに好きな街を案内し合おうと約束していた。私がパリの左岸を連れまわし、かんべちゃんがアメリカ西海岸をドライブに連れていってくれることになっていた。私が行きたくないと渋っている沖縄と、べんちゃん(冒頭の写真の左手前)のいるインドネシアには、たえちゃん(冒頭の写真の右手前)と3人で行こう、そう話していた。

今頃、かんべちゃんはどこにいるんだろう。「ねぇねぇマリコリーヌ(なぜか彼はそう呼んでいた)、俺さー、死んじゃったみたいなんだよね」と、とぼけて言っているような気がしてならない。
2021年3月8日、50歳と3ヶ月ぴったりの日に亡くなり、
鎮魂の日、祈りの1日である今日3月11日に、荼毘に付された。
私は、友のいない、この世を、これからも生きてゆかねばならない。

最後に、私が大好きな「畔倉重四郎」の最後の言葉をかんべちゃんに捧げたいと思う。畦倉重四郎とは、大岡裁きにあった稀代の悪党である。その重四郎が大岡越前に捕らえられて罪を認めた後に放ったセリフ。(講談師・神田伯山が松乃丞時代に連続読みを行った)
注※ただしかんべちゃんは私が知る限り、悪党ではなく善人で、女友達は多かったが女関係は残念ながら(笑)クリアだった。

これからテメエらは情けねえジジイとババアになって、薄っぺれえ煎餅布団に寝ながら、こうすればよかったああすればよかったと、細く長い浮世を生きる。俺は、気に入らねえ奴はばっさばっさと切り捨てて、美味いものがあれば食べ、美味い酒をくらい、いい女がいたら抱く。それに比べて、テメエらは金もないから欲しいものも我慢して、肝っ玉が小せえばかりに嫌いな奴がいてもせいぜい影で悪口をいうくらいだろう。いまわの際の布団に入った時、テメエたちは、こんなことならおもしろおかしく生きればよかったと後悔すらあ。
テメエたちは俺が地獄に行くと思っていやがるな、いや違う。テメエたちがいるところが地獄なんだ。俺は極楽だ。
テメエたちは、細く長くつまらねぇ世を生きればいいや。後世に名を残すのは、おめえたちじゃねえ。太く短く生きたこの俺なんだよ!



『なごや菓八菓』あたらしい名古屋の和菓子土産【徒然なるお仕事】


なごや菓八菓(かやか)
https://wagashi.nagoya-cci.or.jp/
なぜかあまり知られていないのだが、和菓子で有名な全国の都市と比較しても、名古屋の和菓子のクォリティはかなり高い。武家にはじまり、町民から農民までお茶を嗜んだといわれる名古屋では、茶の湯の発展とともに和菓子も独自の潮流を作り上げてきたからだ。なにがどう違うかというと、まず食感におどろくことが多い。主菓子など例にすると圧倒的にやわらかいのである。またサイズも大きく、価格はお値打ち。作り手の方に話を転ずると、和菓子組合の横のつながりが強く、ライバルである和菓子屋の若旦那たちがとても仲が良い。ともに和菓子を作る仲間として尊敬し、助け合い、もちろんライバルとしてもしのぎを削っている。これだけ書くだけでも名古屋の和菓子って、へぇすごいんだ、と感じていただけると思うのだけど。
その和菓子のポテンシャルを、いずれ観光コンテンツのひとつとして育てていこう!と、名古屋商工会議所で和菓子プロジェクトが昨春立ち上がった。

名古屋の和菓子土産として新商品を開発し、それをコンテストに出品してもらう。選ばれた入賞商品を「あたらしい名古屋の和菓子土産」として認定し、販売開拓やPRを商工会議所が支援していこうというプロジェクトである。2020年12月に審査会がおこなわれ、8店舗の8商品が選ばれた。その後、パッケージやネーミングなど販売するための仕上げをほどこして、いよいよ3月3日より、名古屋駅のジェイアール名古屋タカシマヤ地下1階の「銘菓百選 東海銘菓」にて、販売が開始される。そして、このプロジェクトの和菓子は、「なごや菓八菓(かやか)」というブランドネーム。ロゴマークもかなりかわいいです笑。


レジ前の目立つ場所に特設コーナーが設けられている。結構目立ちます。



箱売りのほか、バラ売りしているお菓子もあるので、いろいろ買って味わいたいという方は、バラ売りがおすすめ。どれも1週間以上の日持ちがするものばかりなので、全部まとめ買いしてもスイーツ好きならまったく問題ございませんw。なごや菓八菓について書かれた小さなリーフレットもあるので、名古屋土産としてぜひお使いいただきたい。


タカシマヤ地下1階の、赤福のエスカレーターはさんだ反対側。すやさんの近くのコーナーです。

なごや菓八菓は生まれたばかり。これから名古屋の観光コンテンツの柱となって、名古屋の和菓子が全国の方から知られ、愛されるようになるまでの道のりはきっと長い。選ばれた8店舗以外の名店も数えきれないほど多くあるから、そちらにもスポットをあてたい。おそらく夢と希望と大いなる理想と、大小のイバラに満ちた道になるだろう。このコラムを読んでくださっている方々とともに、なごや菓八菓を育んでいきたいと思うので、なにとぞよろしくお願いいたします。


007とボランジェを愛する偏執狂の晩餐会【一杯の幸せ】


007の最新作「NoTime to Die」の公開が、今年の4月から11月へ、そして再び来年の春へと延期されてしまった。007と、007の公式シャンパーニュであるボランジェをこよなく愛するわたしにとっては残念でならない。新作が早く観たい!という理由のほかにもう一つ。007にまつわるメニューを最初から最後まですべてボランジェで合わせるという晩餐会を企画していからだ。
最初は4月の公開に合わせて開催するはずが、公開延期で晩餐会も延期。そしてこのたび再延期となったけど、もう我慢できないっっっ!(笑)というわけで、007の偏執狂の晩餐会をやってしまおうと、友人の007好きに集まってもらって昨夜、10月17日7時7分ぴったりに開催した。


会場はルマルタンペシュール。ダニエル・クレイグのポスターでお出迎え。

新作のポスターは友人がプレゼントしてくれたもの。

最初から最後までボランジェだけで構成!

ボランジェとお料理のメニューはこちら。

乾杯前にみなさんにはとらわれの身となっていただいた。面白かったのは、目隠しされていると、みんなおとなしく黙ってしまうこと。約3分ほどの間だったのだけど、どなたも一言もお話されなかった。ただ単にこの写真が撮りたかったというわたしの邪念にお付き合いいただいてすみません笑

乾杯は、ボランジェのマグナムの予定でしたが、なんとジェロボワムに!つまり4本分です。

会場では、過去作品をDVDで流しながら、映画パーソナリティの松岡ひとみさんに007の解説をしていただきました。

どうしてもこれは出してくださいと懇願し実現した、スープ・ド・ポワッソン。わたしが007に食べさせたい栄養と味わいと愛がたっぷり詰まった魚のスープ。これをスープととらえずにお魚料理として出していただきました。

こちらもオーダーした子羊。007がヴェスパーとはじめて会った時に食べた思い出のメニューです。

007コーナーも作りました笑

ところが痛恨のこれを持参し忘れ!007を観ている人なら絶対にわかる、ロイヤルドルトンのジャックですね。これはスペクター仕様なので顔に傷あり。

ウォッカマティーニを、シェイクで。というボンドの決まり台詞をやってね、と仕込んでおいたSドクター。そのお役目はしっかり果たしていただきながらも、まさかのワルサーまで仕込んでいたとは!最後はSドクターのなりきり007で大いに盛り上がりました。というか今回けっこう時間かけて用意した企画だったけど、全部持っていかれた感www

ボランジェ・グランダネ・ロゼ2007、しかもマグナム。美味しかった〜。

なりきり007とボンドガール?たちwww。この日のドレスコードは007。男性はタキシードまたはそれに準じる格好で、とお願いしました。お店のスタッフもシェフまでも蝶ネクタイで奮闘してくださいました。偏執狂の会にお付き合いくださって、本当にありがとうございました。

公開は来年の春に延びてしまったけれど、こうして楽しい会ができたことは延期されてからこそ、とプラスに考えるようにしよう。最近ボランジェに新たに007印字のあるシリーズが発売となったので、来年の公開の時には、これをみんなで開ける「今度こそ公開記念晩餐会」をやることにした。今からまたネタを仕込んで企画しなくちゃ。参加ご予定の方、どうぞお楽しみに!


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