読書する贅沢

利休にたずねよ【読書する贅沢】


市川海老蔵主演の映画「利休にたずねよ」の試写会に、映画ナビゲーターの松岡ひとみさんがご招待くださった。↑左が映画パンフレット、右が小説文庫本↑ 山本兼一さんの直木賞受賞作である同名小説は先に読んでいたので「読んでから観る」かたちとなった。何十年も前の某出版社の小説と映画の同時PRキャッチコピーに「読んでから観るか、観てから読むか」というのがあったけど、私は完全に読んでから観る派。小説と映画を比べちゃうと、想像力が働く分どうしても小説に軍配があがってしまうので、本当は観てから読んだ方が、作品への思いは深くなるのかもしれないな、と思っている。ところが映画「利休にたずねよ」に関して言えば、読んでからでも観てからでも、どっちでも楽しめる作品だなぁと珍しい感想を持ったのである。小説の方は、利休の人生をいろいろな人の視点で切り取ってオムニバスのような仕立てになっているので、人間関係が立体的な構図となって見えてくる。映画はその仕立てではないけれど、主役である海老蔵の圧倒的な演技力と存在感が、新しい利休像を作り上げていて興味深く観てしまったのだ。海老蔵が利休ってどうなんだろ?なんて素人考えでいたのだけど、ひとかたならぬ美への執着者・利休と、狂気を秘めた海老蔵は、どこかで重なり合っているように思えた。
もちろん、利休の映画となればお茶のお点前やお道具がとっても気になるところなので、そういう意味でも楽しめる。なんと、長次郎作の黒楽を楽家から特別に借りることができ、その黒楽茶碗で100年ぶりにお点前したシーンが映し出されている。海老蔵のお点前のシーンはさすがに所作が美しい。背中に筋がはいっているかのような伸びや手配りのきれいさなど、これは歌舞伎役者たる所以かな。ロケ場所も仕事柄気になるところで、大徳寺や南禅寺などビックリするような場所で行われている。お茶については、三千家がパートに分かれて監修されたそう。敬愛する茶人であり歴史学者の熊倉功夫さんも監修に名を連ねている。つまり、茶道界がお互いに睨みをきかせながら、それぞれに(表向きは)納得して出来上がった映画というわけである。この裏話を聞いただけでも、監督はじめスタッフの方々の並々ならぬご苦労と気遣いがあっただろうと拝察する。


原作を読んでいる立場でもし希望を言えるとしたら、ぜひ監督に聞いてみたいことが2つある。ひとつは、原作と明らかに異なる演出をした最後のシーンについて(これ以上はネタバレになるので書けないけど)。女性の視点では、いまいち納得しがたいものがあったなぁ。もうひとつは、若い時代の利休のエロティシズムについて。映画では若さゆえの傲慢さは描かれていたが、エロティシズムの部分は出てこなかった。千利休のイメージが崩れるとかなんとか言われそうで、茶道界との関連があったのかもしれないけど、なぜそこを描かなかったのか、是非とも聞いてみたい。


ちなみに気になる配役。利休が市川海老蔵、信長に伊勢谷友介、秀吉が大森南朋、長次郎を柄本明。利休の最後の奥さんの役を中谷美紀、ねねが檀れい。豪華な配役ですな。さて、映画「利休にたずねよ」は12月7日から東映系で公開だそうです。まだまだ時間がたっぷりあるので、ぜひ小説を読んでから映画を観てみてくださいまし。


つばめの家/岡田新吾氏最新作【読書する贅沢】


岡田新吾氏が3作目となる児童小説を上梓した。金曜日の夜は、その出版記念パーティーだった。岡田氏は、広告デザイン会社の社長、コピーライター、ブランディングプロデューサー、写真ギャラリーのオーナー、そして児童小説家と、幾つもの顔を持つ。月曜から金曜は目いっぱい仕事をして、児童小説を書くのは主に休日なのだそうだ。そんな生活をもう10年近く続けている。広告業界に身を置いている同業者として、これは感嘆に値すること。大して仕事がなくてもなぜだか毎日忙殺されるのが広告業界の常で、多くのクリエイターが休日は家族サービスさえ遠慮がちにして、頭をからっぽにすることで次の新しい一週間をなんとかしのぐためのチャージをしている。その大切な休日を、ジャンルは違うと言えども執筆という作業に費やすことは並大抵のことではないはずだ。それが出来るということは、岡田氏にとって広告業界は仮の姿で、児童小説の世界こそ天職なのだろうか。いやいや、そう問えば否と答えるに決まっているのだけれど。


3作目となる「つばめの家」は老夫婦が主人公という不思議な構成になっている。岡田氏の"あとがき"にもこの件について触れているが、これは児童小説の世界ではあまりないことらしい。ゆえに執筆が時にゆっくりになったり、悩んだりしたこともあったそうだ。このまま老夫婦を主人公にして出版をするか、あるいは子供が主人公の小説に書き直すか。その悩みの段階のあたりから作品を読ませていただいていたので、私個人的には初心を貫いた岡田氏の勇気に拍手を贈りたいと思う。


その結果、今までの児童小説にはない、"子供とは違った視点で大人が楽しめる一冊"に仕上がっているからだ。小説の随所に隠された不変のテーマは、愛情を注ぐということの意味について。家族や友人への愛情、社会への愛情、弱きものや失われゆくものへの愛情を、すべての読者に問いかけている。そしてそれは、何年か前にご母堂を亡くされた岡田氏の母へのオマージュでもある。


ひとつ書き忘れていたけど、私と同じくコピーライター仲間である岡田氏は高校時代のリアル同級生でもある。しかも高校3年の担任は国語の松久先生だった。お互いに(失礼!)優等生とは決して言えない私たちが、言葉を紡ぐ仕事をしているというのだから、世の中もわからないものである。なので今回の出版祈念パーティーには、恩師である松久聡先生と高校の同級生たちも駆けつけた。この写真は、恩師・松久先生と岡田氏を同級生で囲んだ時の記念写真。なんとこのメンバー。極楽トンボの私を除き、1人が某大手新聞社の管理職で、2人が政治家、あとの4人は会社経営者である。みんな偉くなったもんです、ビックリしちゃいました。さて、最後にクイズです。この写真の中の政治家2人とは誰でしょうか?選挙ポスターっぽく爽やかな笑顔が印象的な2人が政治家なんだけど、わかるかなー!?


繰り返し読む本は一生もの【読書する贅沢】


子供の頃からよく親に言われたのは「ホントにあなたはバカのひとつ覚えなんだから」という言葉である。おもちゃでも食べ物でも、気に入ると何度も何度も使って食べて眺めたりして、周囲があきれるほどに愛おしむ。大人になってもそのクセは治らず、気に入った料理があると一週間でも食べ続けてしまう。ここは居心地が良いお店だなと思うと、店主がイヤな顔するまで通う。徹底的に愛でるというのは悪いことではないと思うけど、別名しつこいとも言うので、そろそろ『いい加減どき』というのを覚えなければいけないと思っている。


が、そんな私が周囲をあきれさせることもなく、密かに楽しめるのは読書だ。これは面白い!と思う本に出逢うと、それこそ何十回も読んでは、その度に別の発見があったり違う見方ができたりして、一人悦に入っている。それらの本たちを、一生本と読んで別格扱いしているのだが、最近、その一生本リストに新しい一冊が加わった。昨年初版された佐藤賢一氏の『黒王妃』である。カトリーヌ・ドゥ・メディシスのことを描いた小説で、フランスの歴史小説としてだけでなく、フランス文化や当時のイタリアとフランスの関係性、カトリーヌの女性としての可愛らしさがつぶさに描かれている。昨年の終わりにはじめて読み、あまりに良かったので、ここ半月ほどで2回目を読み、数日前に読破した。佐藤賢一さんは、フランスを舞台にした歴史小説が多い。驚くべきは、地名と人名以外はほとんどカタカナを用いないことだ。美しく正統な日本語で優美なフランスの歴史を語るのだから、その文章は多少難しくも感じるのだけど読みごたえがある。家庭画報に連載されていた『かの名はポンパドール』の精緻な日本語使いには脳天を打ち抜かれた気分になった。


写真の左側に映っているのは、宮尾登美子さんの『きのね』。これも随分前に一生本リストに入っていて、この文庫本がもうぼろぼろになるくらい読んでいる。こちらもご存知の方は多いと思うが、市川団十郎家をモデルにしたと言われた小説で、歌舞伎役者とその妻が主人公である。先日、団十郎さんが亡くなった時の海老蔵さんの会見を見ていて、ふと『きのね』の主人公である幸雄のことが頭をよぎった。私には主人公の歌舞伎役者が海老蔵さんのイメージと重なってならないのだ。それで何十回目かの『きのね』をここのところ読み始めている。


一生本になる本は、何度読んでもその度に違う感動があり、まるではじめて読むようなときめきを与えてくれる。しかし同時に、何度も読んでいるからこそわかる盛り上がりには、知っているのにドキドキしてしまう。大好きな描写があと数ページ先にあると、わざと前のページに戻ったりして、じらして読んだりする。こうなると、ほとんど変態だ。幕の内弁当でいちばん好きなおかずを最後までじらして残しておくタイプの私は、小説の好きな描写をじらしてじらして我慢できなくなってからやっと読み進むのである。普段Sキャラだと言われることが多いからか、読書ではMキャラでバランスをとっているのかもしれない。


桑愈〜そうゆ 和久傳【読書する贅沢】

自他共に認める和久傳好きなワタクシ。お料理もさることながら、和モダンなセンスやしつらいも大好きで、京都の和久傳は目的ごと(はっきり言えば予算ごと)に利用させていただいている。そんなわけで、和久傳から定期的に届く小冊子の桑愈は、和久傳好きなワタクシをますますファンにさせてしまう強力なフィロソフィー本なのである。
かの有名な和久傳の女将さんの人脈がなせることなのだろうか。そうそうたるメンバーが書き手となって、各々がエッセイを書き連ねている。テーマも様々だ。哲学者の梅原猛先生をはじめ、植物学者の(潜在自然植生を研究している方ですね)宮脇昭先生、宮本輝さん、文学者の中野美代子さんなど、学者や文学者、文化人を中心に、あらゆるジャンルから書き手が選ばれている。そのひとつひとつのエッセイが面白いのである。どこが面白いかというと、どなたも和久傳のことには一切触れずに、今思うことを京都の町に触れながら自由闊達に執筆されているのだ。こういう活動というのは、京都ならではなのか(もっとも和久傳は生粋の京都料亭ではないけれど)。昔、文学者や芸術家が料理屋を活動の拠点にして思想を語っていたことを鑑みると、そうした伝統が受け継がれた上での出版なのかもしれないなあ。ま、もちろん、そこには今でいうパトロン、昔風に言えば、旦那衆の役割が存在していたわけだけど。
ちなみにこの桑愈は和久傳でお食事すればいただけるので、皆様お出掛けの際には、ぜひ一言お添えになってご入手くださいまし。今なら、高台寺本店は間人の蟹が召し上がれますぞ。あぁ、思い出すだけでおなかがいっぱいになります。


中原の虹 浅田次郎【読書する贅沢】

例によって例のごとく、浅田次郎好きなワタクシの最近の2度読みが、中原の虹、であります。NHKで放映されている「蒼穹の昴」の第3弾(第2弾は珍妃の井戸)として、あまたの浅田次郎ファンが望んだ続編である。清国の末期を描いているとあって、蒼穹の昴同様、漢字含有率が高く、人の名前が覚えられなくてごっちゃになりがちなのだけど、それ以上にぐいぐいと惹きつけられる話の展開と、あ〜これとこれがこう結びつくのか〜!という嬉しい驚きが続くこともあり、眠い目をこすって毎夜ベッドで読んでいる。1度目は、とにかく先が読みたいのでひたすらストーリーを追って読み進む。2度目には、一文を噛みしめるように味わいながら読むので、時間がかかって仕方がない。特にこの作家は、漢字に妙なこだわりがあって、今や使用されていないような難しい漢字を積極的に使っているので「なんだこりゃ」「どういう意味なんだろ」などとつぶやきながら読むことになる。いい年したオンナがベッドで一人ぶつぶつ言いながら読書するというのは、あまり褒められた様子ではないと思うものの、本人は至って幸せな時間なのである。


年末から年始にかけても仕事漬けで、毎日PCとにらめっこなのだけど、それもあと数時間でおしまい。明朝からバンコクにひとっ飛びするのだ。仕事は多分朝までかかるので、今夜は眠らずに原稿を書き、明朝に旅の支度をして機上の人となる予定なのだけど、旅のお供に持参するのは中原の虹、と決めている。腫れた目で読み続け、雲上でまぶたが引力に負けた時、本を抱きしめながら爆睡してやるんだ。浅田次郎さん、私ってなかなか良い読者でしょ?


ノルウェイの森 村上春樹【読書する贅沢】

拡大解釈ではあるが、私たちの世代にとって村上春樹氏は、好むと好まざるとに関わらず、密接に人生に寄り添ってきたし、間違いなく影響を受けた小説家の一人だと思う。例えが良くないかもしれないけど、ある年代にとってサザンオールスターズの音楽が、好むと好まざるとに関わらず人生に密接に寄り添っているのと同じように。
そして村上作品のファンであるかどうかに関わらず、多くの人に読まれたのが「ノルウェイの森」だ。もともとこの小説は「蛍」という短編が基になっている。(私は「ノルウェイの森」から先に読んでしまい、後になって「蛍」を読んだ時に、読書するシアワセ感をとても新鮮に感じたことを今でもはっきり覚えている)「ノルウェイの森」は、他の村上作品のような不思議感があまりない。風変わりな登場人物、非現実的な状況が出てこない。ある意味で、とてもわかりやすい小説だったことも手伝ってか、発刊当時は爆発的な売れ行きだった。その「ノルウェイの森」が長い年月を経た今、映画化されるっていうんだから、驚かないはずはない。
村上作品の映画化は数少なく、その理由は作家本人が映像化をなかなか許可しないからだと言われている。素人ながらにも、確かにあの独特の間合いとか、台詞まわしとかを映像化するのは難しそうですよね。小説を読んだ人は、イメージが自分の中でふくらんでいるはずだから。


その難しい映像化に取り組んだのは、「青いパパイヤの香り」のトラン・アン・ユン監督。驚くほど原作にほぼ忠実に物語が始まる。乾いた孤独感とか、喪失感みたいなものは、美しい風景によって描写されているので、読者は違和感なく映画の世界に入っていける。死に向かっていく直子はいつも青みがかった画で、生に向かっていくミドリは暖かな色に満ちていた。直子の療養所のある山の中の風景がとりわけ美しく、印象的である。イネ科の草の大群が風になびく様子は、直子の心の揺れのようで、悲しく寂しい。きっとロケハンに相当な労力と時間を費やしたんだろうなぁ〜。
試写室を出た時、何度も読み返したあの赤と緑の装丁本を思い出し、猛烈に読みたいという衝動にかられた。こう感じさせる映画はとても珍しい。原作にほぼ忠実な映像化が、小説に寄り添う映画を創り出したのだと思う。映画単体では存在しえない、小説と必ずセットになった映画は、12月11日からロードショーだそうです。観る前にぜひ小説をお読みになってからお出かけくださいまし。


追記1●映画には、イトイさんや細野さんやユキヒロさんがちょろちょろっと出演されていて、地味な可笑しさがかなりツボです。
追記2●レイコさんの役者さんのみ、私的にはイメージが違ってました。レイコさんの部分は原作に忠実ではなく脚色されていましたし、それがちょっと残念。
追記●ワタナベ役の松山ケンイチさん、若き日の村上春樹氏に似ているじゃん、と思ったのは私だけでしょか。


1Q84 BOOK3 村上春樹【読書する贅沢】

もう10日ほど前のことだけど、出ましたね、BOOK3。今回は品切れ状態ということのないようかなりの部数を出版したからか、前回の時のような"騒ぎ"にはなっていなくてなんとなくホッとした。ある意味で難解な小説とも言える1Q84が驚愕的な話題になっていて、なにかしら不安定な懸念を抱いていたのは私だけではないと思う。


仕事が暇なのをいいことに(泣)、後半はどんどんと読み進み、ついぞ徹夜までしてしまった。朝になっちゃうよ〜と焦りながら読み終えたら5時だった。やれやれ、なにをやっているんだか。

おかげで朝方までのわずかな仮眠の夢は、特徴的な外見を持つ登場人物・牛河にそっくりだと密かに思っている知り合いの人が出て来てしまったではありませんか。できれば夢には出て来て欲しくないタイプの人だったので、一日ブルーな気分になっちゃった・・・とほほ。

ま、そんなくだらない私見は置いといて・・・ここでは読後の私見を。

ファンタジー、宗教、純愛など様々なテーマが見え隠れする前回までの流れと違って、牛河という新しいチャプターが追加され、物語はジェットコースターのようにスピーディーにしかし確実に真相へと近づいていく。前回私が感じた「根底にある喪失感」は、「未来への期待感」にとって代わり、美しい結末へと導いている。村上作品にしては珍しく?、私は清々しさを感じることができた。喪失感から期待感へと読者の気持ちを移動させるには、BOOK3出版半年後というタイムラグは、正解だったように思う。


永沢君 さくらももこ【読書する贅沢】

日曜日夕方のテレビと言えば、我が家の場合は、17時30分「笑点」、18時30分「サザエさん」である。この2つは子供の頃からずっと好きで見続けているもの。2つの番組の間に国民的人気アニメ「ちびまる子ちゃん」を挟んでいる。ところが、四十オンナにとってのちびまる子ちゃんは、日曜夕方テレビ番組表では、ごくごく新参者なのである。笑点の大喜利で笑った後、ちびまる子ちゃんの放映中は、なんとなく気が抜けた感じで、うつらうつらしていて、サザエさんが始まるとテレビに釘付け、みたいな日曜日を過ごすことにとても小さいけれど確かなシアワセ感を持っている。


というわけで前置きがすっかり長くなってしまったけれど、ちびまる子ちゃんに登場するキャラに大した興味は持っていなかったにも関わらず、本屋さんでこの本を見かけた時に、手に取ってみたくなったのは、なぜなのか。

ちびまる子ちゃんを見たことがある人ならご存知の永沢君。本名、永沢君男。タマネギ頭で、人の顔を見ると毒ばかり吐いている小憎たらしい少年、この本は彼が主人公のマンガなのだ。本屋でこの本が気になったのは、多分、永沢君のシニカルな性格が私と似ていて、お互いに引き寄せたのではないかしら?

ちびまる子ちゃんたちは小学生から中学生となり、中学生になった永沢君を中心にして、彼の個性的な仲間の人間関係を、作者のさくらももこさんが描いた本である。ちなみにまる子ちゃんは登場しない。永沢君をはじめ、ちびまる子ちゃん本編にも確か登場している小杉や藤木といったおなじみ脇役、お嬢様の城ヶ崎さんや野口さんも登場している。

何が面白いって、永沢君と友人達の会話があまりにも絶妙なのだ。
友人が悩みを打ち明けた時、テストの点数が悪くて落ち込んでいる時、永沢君がかける言葉が、シニカルでブラックジョークの極みだ。

子供には読ませたくない、大人だけが味わうことのできる面白み。寝る前のナイトキャップにおすすめの一冊である。


坂の上の雲 司馬遼太郎【読書する贅沢】


約30年ぶりに読み始めた、坂の上の雲。本屋さんで本棚から八巻の文庫本を片手で一気に抜くという作業は、手がデカイと認識している私にとってとても気分の良いものであった。この小説をもう一度読もうと思ったキッカケは、もっちろん松山への旅である。というわけで、松山"旅の手帖"第3弾。


「坂の上の雲」は、中学生の時に社会の先生から勧められて読んだことがあって、その時は特に感慨もなく、なんとなく読み進んでしまったという印象しか残っていない。今回は、NHKのドラマを観ていたこと、そして松山で「坂の上の雲ミュージアム」を訪れたことが、再読への想いを駆り立ててしまったらしい。安藤忠雄さん設計による「坂の上の雲ミュージアム」は、建物そのものの面白さはもちろんだけど、文字中毒の私にとっては"ここに住めたらいいのに"と思うほど魅力的な場所だった。小説の文章に沿って、歴史と地域の文化と秋山兄弟及び正岡子規の一生がわかりやすく展示されているのだから、文字中毒者なら、ここに10日ほど滞在してじっくり廻りたい!と思うはずである。「坂の上の雲」がお好きな方には、是非来訪いただきたいミュージアムである。さりとて私は同行者もいたので、あまり夢中になりすぎるのも社会通念上よろしくなく、適度に切り上げてミュージアムを後にし、さくさくと道後温泉へと向かった。


道後温泉と言えば、木造三階建のこの景色ですよね〜。
温泉とは言っても、香りがほとんどないさらさら系のお湯なので、
温泉街にありがちな硫黄の匂いに閉口することもなく、
ひたすらミーハーに観光を楽しめばよい。



夏目漱石の「坊ちゃんの部屋」のお隣のお部屋をオーダーして、しばし坊ちゃん気分を味わっていたら(写真左)、意外に美味しい坊ちゃん団子なるものをお茶受けに出してくださり(写真中央)、道後温泉のシンボルマークでもある温泉の湧き出るデザインがあちこちに使われているのを見つけて(写真右)、なんだか良い気分になっていた。温泉では、お隣にイギリス人と思われるうら若き女性が一緒になり、温泉のあれこれについて、かなり下手っぴな英語で会話しつつも、うら若きイギリス人女性と素肌をすり合うも多少の縁とばかりにすり寄っている自分のオヤジ度に嫌気がさし、すごすごと坊ちゃんのお隣のお部屋に戻って、文学にふけていた頃、窓の外から完全に酔っぱらったオヤジたちの嬌声が聞こえてきて、あ〜あ私もあのオヤジ殿と同じだな〜と感慨にふけった初春の松山であった。


でも正直なところを申せば、坂の上の雲のドラマを見ることにしたのは、結局はもっくんが好きだというにほかならず、さらに松山市内の随所に貼られている「坂の上の雲」のポスターには当然ながらもっくんがかっこ良く映っているわけで、それを見るたびにうっとりしつつ同行者をあきれさせ、あげくの果てにはそのポスターのもっくん部分を写メして待受画面に設定するなどという、広告屋としてはやっていはいけないことに夢中になった。


毎晩読み進んでいる小説にしたって、秋山真之はイコールもっくんであって、他の誰でもないわけで、結局のところ、人間の欲はこんな単純なところから生まれているのだなと思う今日このごろである。だってかっこいいんですもの、もっくん。最近第三子ご誕生とのことで、そのご子息の名が「玄兎 げんと」というらしい。これは古語でお月様のことを指しているらしく、お月様好きな私はいっぺんに心臓を打ち抜かれた気持ちになってしまった。こんなことにうっとりしている四十オンナですが、みなさま、許してくださいますかっっっ???


蒼穹の昴 浅田次郎【読書する贅沢】

浅田次郎の著作はほぼ読破しているが、任侠もの、お涙頂戴、歴史もの、ファンタジーと、そのジャンルの幅広さにはいつも驚かされている。軽薄短小に陥りがちなアメリカのカジノが舞台になったり、また古めかしくなりがちなフランスのルイ王朝を舞台になったりするが、そこには常に日本人の侍魂や限りなく深い人情が描かれていて、涙なしには読み終えることができないのだ。
「蒼穹の昴」は、中国の清朝が舞台となった一大歴史スペクタクルで、実は浅田次郎が大好きという割には、私がなかなか手をつけなかった小説だった。なぜかと言うと、この小説は中国を舞台にしているため、登場人物の名前がすべて漢字で小難しく、恥ずかしながら読書中に人物がごっちゃまぜになってしまうのでは?と心配だったからである。浅田次郎の小説で新しく読む物がなくなってしまった時、仕方なく文庫本を買ったのだが、読み始めると、漢字が分からないことなどすっかり忘れて、ぐいぐいとストーリーに引き込まれてしまったのを今でもはっきり覚えている。おそるべし、浅田次郎ワールド!


今年に入ってから、NHKで蒼穹の昴がドラマ化されていて、これまたびっくり。「王妃の館」と並んで、「蒼穹の昴」は絶対にドラマ化は無理だと勝手に思い込んでいたからである。どちらの小説をドラマにしても、セットを組むだけでも壮大すぎて、お金がかかりすぎると思ったからだ。ところが、中国のどこかの地方都市にあの紫禁城をドラマ撮影用に作っちゃったというのだから、中国ってやっぱりやることがハンパじゃないですよね。
というわけで毎週土曜は口パクが気になる田中裕子の西太后と共に、小説の「蒼穹の昴」を、ドラマ「蒼穹の昴」でどのように描くのかを検証しつつ、楽しんでいる。小難しくて忘れそうになる登場人物は、毎回クレジットが入るので忘れずにすむ。こういうのは映像の良いところですね。小説だといちいち前のページを手繰って、誰だったっけ?と確認しなくちゃいけないんですもの。(頭の悪さが露呈しちゃうけど) そうそう、NHK受信料をマジメに払っていて良かった、と思える瞬間でもある。