読書する贅沢

ヴィヨンの妻【読書する贅沢】


読んでから見るか、見てから読むか。

角川書店が派手な映画事業に乗り出した時のキャッチコピーである。
小学生だった私は、このコピーの意味に深くうなづきながら、「犬神家の一族」「人間の証明」「野生の証明」を読みふけり、薬師丸ひろ子と高倉健の演技に涙した。映画だけではなく、テレビドラマにもなったんじゃなかったかな。小説を読ませ、映画も観させるというメディアミックスを広告展開した最初の成功例だったと思う。

映画評論家でもなければ小説家でもないので、とても生意気な意見ではあるが、原作の小説を超える映画はない、というのが私の思い。主人公の顔立ちや声を想像しながら、商業的損得のない物語展開を楽しむことのできる小説と、すでに誰かが原作を勝手に解釈して作り込んだ映画とでは、想像力がまったく違ってくるからだ。映画を観てから小説を読むと、「なんか違うんだよな〜」と偉そうな言葉を吐くことが多いので、なるべく生意気なオンナにならないよう、必ず小説を読んでから映画を観るようにしている(ここまでの流れで、もうすでに十分生意気なオンナではありますが)。


はてさて、それで今日観て来たのが「ヴィヨンの妻」。原作は太宰治の同名小説だ。この映画の名古屋におけるPRをお隣の由美さんがお手伝いしているということで、「ちゃんと観てね〜」と言われていたにも関わらず、公開ぎりぎりの今日になってしまった(由美さん、遅くなってごめんなさい、こんなことなら最初から私一人で見に行けば良かったわん)。


もちろん、新潮社から文庫化されている原作を読んでから映画にのぞんだ。太宰治自身の心中未遂や幾多の女性遍歴についてはここでは棚上げするとして、太宰治の文章の美しさには確かに心惹かれるものがあり、原作を読み進むにつれて「このきれいな文章を映画にするとしたら、どんなになるだろう?」とそればかりを気にかけて小説を読むことになってしまった。(この長い文章、太宰っぽさ出てますかね???まさかね、あはは、ただ長いってだけじゃね・・・)

それで、映画を観た感想は・・・。のっけから「美しい文章」が「美しい話し言葉となって台詞で生きていた」のである。松たか子と浅野忠信の夫婦のやりとりなどは、本当に美しい言葉だなぁとうっとりしてしまった。戦後まもないあの時代に、日本人はあんな美しい言葉で話していたのだろうか。
(こういう感想をもったということは、この映画に関して言えば、原作のイメージとあまりかけ離れていないという判断にもなる)


というわけで、「ヴィヨンの妻」は公開期間があとわずかとなってしまった。もしもまだご覧になっていない方がいらっしゃれば、是非、新潮文庫の原作を読んでから(短編なのですぐに読めちゃいます)、美しい太宰ワールドを堪能しに映画館に足をお運びくださいませ。オススメでございます。


ティファニーで朝食を 村上春樹訳【読書する贅沢】

言わずと知れたトルーマン・カポーティの小説が、村上春樹氏による翻訳で文庫本化されている。今迄に何十冊もの翻訳を手掛ける村上氏。1Q84の第3部を執筆中であることが話題で、この翻訳本の方は陰が薄くなっているが、自らが影響を受けた作家の小説は、翻訳挑戦してみたいという欲望があるようだ。その内の何冊かを読んだが、中でも村上春樹訳「グレートギャッツビー」は本当に素晴らしい出来上がりだった。それを温泉旅行に持参した私は、お部屋の温泉風呂に体をしずめながら読み、あまりに面白くてお風呂から上がるのをすっかり忘れてしまって読むふけり、足がふやけてしまったことがあるほどだ。


その時のコーフンが忘れられなくて、今回も本屋で「ティファニー」を見かけたのでつい買ってしまった。私たちは、ティファニーのタイトルを聞くと、ごく自然にオードリーヘップバーンのパイプ姿を思い浮かべる。ヘップバーンの代表作としてあまりに有名だからだろう。


しかし、村上本を読むと、その印象はがらっと変わった。ラブコメディータッチの映画と原作の内容が違った作りになっているのはともかくとして。なにより、あの主人公の女性は、ヘップバーンのイメージとはあまりに違うのだ。村上本では、主人公ホリー・ゴライトリーは自由で奔放で闊達に生き、そして徹底的にもの悲しく孤独に過ごしている。意味不明な経済力とどん底の貧困、美しさといかがわしさが同居していて、ゆえに魅力的な女性、ホリー・ゴライトリー。村上本を読みながら、勝手に頭の中でホリーという女性を想像して楽しむことができた。


原作を超える映画はない、絶対にない、というのが私の持論(偉そうですみません)。今回もまったく別物として原作を読んだおかげで大した違和感は感じなかったものの、村上氏があとがきにも書いているように、どなたか「ティファニー」を原作に忠実に再映画化してもいいのではないだろうか。女優ありき、ではなく、原作ありき、の製作で・・・。


かの名はポンパドール 佐藤賢一【読書する贅沢】

家庭画報に連載されていた「かの名はポンパドール」が、今月号で最終回を迎えた。フランス王ルイ15世の籠姫であり、聡明で美しい女性として、そして今に伝わるフランス文芸の保護者として有名なポンパドール侯爵夫人のことを、その実弟であるマリニィ侯爵の目で描いた小説である。
ポンパドール夫人は、趣味の良い目利きにより多くの芸術を育ててきた。当時のヴェルサイユに渦巻いた「ア・ラ・ポンパドール」は現代にまで引き継がれたひとつの価値観となっている。
パリのホテル・ド・クリヨンはルイ15世が夫人のために作らせた館であるし、大統領府であるエリゼ宮は夫人自ら設計したものである。
さらに、ワイン好きの方ならご存知だと思うが、かのロマネコンティは、ポンパドール夫人とブルボン王朝の名族コンティ公がその所有権をめぐって争い、結果コンティ公のものとなって、ロマネコンティの名が付けられたもの。
さらにさらに、かのシャトー・ラフィット・ロッチルド(ワタクシがこの世で最も愛するワインであります)は、ロマネコンティ争いに破れたポンパドール夫人が怒ってヴェルサイユからブルゴーニュワインを閉め出し、代わりに愛飲したワインなのだ。


このポンパドール夫人、当然ながら良くも言われるが、悪くも言われている。佐藤賢一さんは、そのポンパドール夫人を、実弟であるマリニィ侯爵の目線で描くことで、崇高な誇り高き女性として見事に表現しているのだ。
家庭画報の連載を読む楽しみが、今月で終わってしまうのは少しさびしいけれど、最後の最後まで、ポンパドール夫人の潔い生き様を読ませてもらえたので、とても心地よい思いで満たされている。

ちなみに佐藤賢一さんといえば、直木賞作品「王妃の離婚」が有名で、私もその本が最初の佐藤作品となった。フランスの歴史小説に特化した小説家として、史実に忠実に、けれど独自の視点と創作を加えて仕立てられた小説は、時間も忘れて読みふけってしまうほど素晴らしいものばかりだ。中でも私がいつも「うなる」のは、カタカナ表記の少なさである。

フランスが舞台の小説なので地名や人名にカタカナ表記があるのは必然であるが、形容詞などにほとんどカタカナを用いないのである。見た目にも実に美しい文章だ。昔から使われていた言葉を用いて古い時代を表現することこそ、歴史小説の理想型なのではないかと思わせてくれる。


別れの言葉はいらない【読書する贅沢】

「約束のつばさ」という児童小説が先月刊行された。
これは高校時代の同級生・岡田新吾氏の作品だ。
岡田くん(高校時代の通り君づけさせていただきます)とは高校を卒業してから交流がなかったが、偶然名古屋で15年ぶりくらいに再会した時は、お互いに同じコピーライターの仕事に就いていた。

その後、岡田くんは広告会社を設立し、写真ギャラリーをオープンさせ、
とうとう夢のひとつであった児童小説を出版させた。
我が同級生ながら、あっぱれな活躍である。


「約束のつばさ」は、戦争で命を落とした男が、一人娘に会うために、
天国からやって来て、主人公の小学生と交流をするお話。
児童小説ながら、読みごたえのある文章と中身の深さに、
児童向けということをすっかり忘れて読み進んでしまった。
出逢いの喜びと別れの切なさが、小学生の目を通して描かれていく。
子供だけでなく、大人にも読んで欲しいと思える小説だった。


読み終わったばかりのこの本を、昨夜もう一度読んでしまったのには、理由がある。
昨夜のこと、仕事(と呼んでいいかどうかわからないけど)で6年近く共に過ごしたクルーが
新天地へと旅立ったのである。
いろんな想いを共有し、苦しみ、笑い、時に嘆き、楽しんで、
経験を積み上げた大切な仲間だったので、
万感こみあげるものがあり、不覚にも何度も涙を流してしまった。

「約束のつばさ」では、天国からやってきたおじさんは別れの言葉を言っていない。
「いつになるかわからないけど、きっともどってくる」と言っている。

新天地へと旅立ったN氏とF氏とも、私は別れの挨拶はしなかった。
約束のつばさ、ならぬ、約束の一皿で、きっと近いうちに会えると確信できるから。


村上春樹 1Q84【読書する贅沢】

読みました、1Q84。
村上春樹風に表現するなら、
「村上春樹は私が思春期の頃に鮮烈な印象と共に世に出た作家で、
何十年にも渡って、新刊本は必ず目を通して来た。
だから、新刊が出たとあっては、
好むと好まざるとに関わらず、読まないわけにはいかない」のだ。
「アンダーグラウンド」でオウム真理教を取材した村上氏が、
大胆に宗教団体を描いている部分があり、
あの事件と本のことを思い出さずにはいられなかった。
宗教の他、純愛やファンタジーなど、
この小説からはさまざまなテーマを読み解くことができるが、
根底には喪失感のようなものが流れているように思う。
私はどうしてここにこうして生きているのだろうという深い懐疑が、
この小説の根本にあって、
それは私たちが常に背負っている心の陰のような部分と共鳴しあうのではないかしら。


さてここからは読んだ方だけへのメッセージだけれど。
毎日眺めているお月様、今夜は、どんなお月様が浮かんでいるでしょう。
もしお月様がふたつ並んでいたとしても、私は驚かないと思う。
なぜならそれは、今年が2009年ではなく、200Q年だということだから。


宮尾登美子・きのね【読書する贅沢】

4月の御園座では、予想以上に(失礼!)海老蔵丈の素晴らしい舞台を堪能したので、
久しぶりに「きのね」が読みたくなった。
先々代の市川団十郎をモデルにした小説で、歌舞伎の名門である市川家がどのような戦中戦後を過ごしたか、女中であった主人公が忍耐を繰り返してどう生きたかが見事に描かれた傑作である。
「きのね」に登場する歌舞伎役者の雪雄は、
私の中で勝手に現代の海老蔵丈のイメージと重なってしまった。
何度読んでも新しい感動がある小説なのだが、
今回はセレンディピティを感じる箇所が二度もあったのだ。

「きのね」の直前まで読んでいたのが、石田衣良の「眠れぬ真珠」だったが、
なんとこのふたつの小説に、まったく同じ場所と人名が使われていたのである。
「きのね」で雪雄が結核の療養をするのが葉山の披露山、
主人公の父の名前が清太郎。
「眠れぬ真珠」では物語の舞台が葉山の披露山住宅街で、
主人公に関わる男性の名前が清太郎だったのだ。



「たまたま一緒だっただけ」と言ってしまえばそれまでだけど。
描かれた時代も小説が制作された時代も作家も違うのに、
まったく同じ名前が2カ所も登場したふたつの小説を、
連続して読破したというのは、
読書好きが一人勝手に悦に入るには十分な条件だった。

、本を読んでいると、
「そうそうそう!」と声に出していることがあり、
一人で喜んだり悲しんだり、納得することが多い。

こういう「一人勝手に悦に入る」ことこそ、
読書の醍醐味のひとつだと思うのですけれど、
いかがなもんでしょうか。

それにしても、宮尾登美子と石田衣良を続けて読むなんて、
我ながら、かなりの乱読タイプだなぁと実感したわけです。