今日の地球

これが甘露か? "はまぐり椀"の話【今日の地球】

世の中グルメブロガーだらけで、食べる前に写真を撮るのでお店にはシャッター音が響き、その場でブログアップしてたりするので、食べるのに時間がかかり、隣席にそういう方がいらっしゃるとうんざりする今日このごろ。
だからというわけではないが、なるべく料理の写真を撮ることなく、その一品を記憶に留めておこうとする習性が身についてしまった。とはいえ、そのほとんどが忘却の彼方へといってしまうので、やはり記憶に留めるには写真が必要なのかもしれない。これから書く内容は、写真もないのに、記憶を頼りに料理の思い出を記すものである。果たしてどこまでその記憶を表現できるか、自分の文章力の勝負である。


その料理は、とあるお店で春にいただいた"はまぐり椀"だった。潮の香りが広がり、はまぐり独特の旨味が味蕾を刺激する椀は、料亭や割烹などで春になると出していただくので、今年もいろいろなお店で何度かいただいた。けれど、その椀は他のものとはまったく違うものだった。


料理しているところをカウンター越しに見ていたのだが、大将がカツオ出汁をとり始めたので、これから椀料理を出すんだなと思っていた。そのお店はいつもお客に出す直前に出汁をとるのである。そしてカツオ出汁の入ったお鍋に大きなはまぐりを加える。はまぐりが開いた瞬間に椀に盛り、供してくださった。ただそれだけの工程である。塩も入れず、香りづけのネギ類も加えていない。不思議な気持ちになりながら、椀をひと口いただく。うっすらと潮の香りはするが、味はほとんどしない。ふた口目、はまぐりでもカツオでもない、玉露の上澄みのような薄い味わいが口の中に広がっていく。それからはまぐりの身をいただくと、じんわりとその旨味を味わうことができ、そこからはまぐりがつゆに染み出したのだろう。身を食べ終わった後のおつゆは、はまぐりが軽やかに存在を残す、なんともまろやかな味わいだった。海がそのままおなかの中に入っていったかのようだった。


この椀をいただいて驚いたことは幾つもある。
まずカツオ出汁をとったつゆにはまぐりを入れたはずなのに、カツオの香りや味わいを感じなかったことである。はまぐりの味わいも決して強くなく、食べるに従ってはまぐりが出てくるという印象だった。カツオは一体どこにいっちゃったのか???これはどう考えてもわからなかったので大将に聞いたところ、「カツオでもない、はまぐりでもない、ちょうどその中間地点のバランスで味を決めているのです」とお答えに。つまり味がちょうど中和するポイントで、その椀を出しているということなんだろうか?料理は科学だというけれど、まさに科学と感性がなし得る"食べる芸術"である。
さらに、大将は調味をしていない。塩を加えず、はまぐりが持つ塩分だけで味を構成させた。これははまぐりの塩味を十分に承知した上で計算された技術である。香りづけも一切していない。ネギや柚子などの香味も入れず、ただただはまぐりの味わいをかつお出汁で引き出しただけなのだ。なんという潔さでしょうか!

「昆布にもカツオにも寄っていない、まあるい味を感じたら、それは椀として一級品。それを甘露と表現するんですよ」と山本益博さんから教えていただいて以来、甘露を探し求め、あちこちのお店で椀をいただいているのだが、この日の夜いただいた椀こそ、もしかしたら甘露だったのではないだろうか。もしあれが甘露だったとするなら、甘露とはいかにもはかないものである。その思いが数ヶ月経った今でもずっと残っていて、どうしても文にしたためておきたくなった。