LARMES Column

ヴィヨンの妻【読書する贅沢】


読んでから見るか、見てから読むか。

角川書店が派手な映画事業に乗り出した時のキャッチコピーである。
小学生だった私は、このコピーの意味に深くうなづきながら、「犬神家の一族」「人間の証明」「野生の証明」を読みふけり、薬師丸ひろ子と高倉健の演技に涙した。映画だけではなく、テレビドラマにもなったんじゃなかったかな。小説を読ませ、映画も観させるというメディアミックスを広告展開した最初の成功例だったと思う。

映画評論家でもなければ小説家でもないので、とても生意気な意見ではあるが、原作の小説を超える映画はない、というのが私の思い。主人公の顔立ちや声を想像しながら、商業的損得のない物語展開を楽しむことのできる小説と、すでに誰かが原作を勝手に解釈して作り込んだ映画とでは、想像力がまったく違ってくるからだ。映画を観てから小説を読むと、「なんか違うんだよな〜」と偉そうな言葉を吐くことが多いので、なるべく生意気なオンナにならないよう、必ず小説を読んでから映画を観るようにしている(ここまでの流れで、もうすでに十分生意気なオンナではありますが)。


はてさて、それで今日観て来たのが「ヴィヨンの妻」。原作は太宰治の同名小説だ。この映画の名古屋におけるPRをお隣の由美さんがお手伝いしているということで、「ちゃんと観てね〜」と言われていたにも関わらず、公開ぎりぎりの今日になってしまった(由美さん、遅くなってごめんなさい、こんなことなら最初から私一人で見に行けば良かったわん)。


もちろん、新潮社から文庫化されている原作を読んでから映画にのぞんだ。太宰治自身の心中未遂や幾多の女性遍歴についてはここでは棚上げするとして、太宰治の文章の美しさには確かに心惹かれるものがあり、原作を読み進むにつれて「このきれいな文章を映画にするとしたら、どんなになるだろう?」とそればかりを気にかけて小説を読むことになってしまった。(この長い文章、太宰っぽさ出てますかね???まさかね、あはは、ただ長いってだけじゃね・・・)

それで、映画を観た感想は・・・。のっけから「美しい文章」が「美しい話し言葉となって台詞で生きていた」のである。松たか子と浅野忠信の夫婦のやりとりなどは、本当に美しい言葉だなぁとうっとりしてしまった。戦後まもないあの時代に、日本人はあんな美しい言葉で話していたのだろうか。
(こういう感想をもったということは、この映画に関して言えば、原作のイメージとあまりかけ離れていないという判断にもなる)


というわけで、「ヴィヨンの妻」は公開期間があとわずかとなってしまった。もしもまだご覧になっていない方がいらっしゃれば、是非、新潮文庫の原作を読んでから(短編なのですぐに読めちゃいます)、美しい太宰ワールドを堪能しに映画館に足をお運びくださいませ。オススメでございます。


熟女に熟男【えとせとら】

先日、とある場所でおこなわれた会合にて、とある20代後半イケメンから声をかけられた。
「近藤さん、僕のすっごいタイプなんですけどぉ〜。今度飲みに誘ってもいいですか?」と。
タ、タ、タイプって誰が誰の???とハテナマークで頭がいっぱいになったところで、周りにいた人たちから面白がってもてはやされ、そこでイケメン君の強烈な一言があった。
「友達にもよく言われるんですけど、僕、熟女好きなんですよ」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

じゅ、じゅ、じゅくじょって私のことですか???
まるでハンマーで殴られたかのような(ってこの表現自体が古くて熟女っぽいけど)衝撃を受けて、一瞬もてた喜びよりも、熟女と言われたショックの方が大きく、会合を終えると、一人とぼとぼ帰路を急いだ。


40代にもなれば完璧に熟女、ですよね。確かにそうだ。でもなにも面と向かって言うことないじゃないか!と思い、かつて熟女好きだったという同年代のIさんに聞いてみたところ「20代後半の男性にとっては、大人っぽい40代の女性は魅力的に思えるもの」らしい。ふ〜ん、そうなのか。彼らにしてみれば、熟女は褒め言葉なんですな、きっと。


そこで、はたと私も考えた。普段から年上の方々とご一緒する機会が多い私。気づかないうちに、褒めたつもりで発した言葉で年上の相手を傷つけてはしまいかと。年齢を重ねることで人の魅力は増すものだと信じ込んでいるので、いぶし銀とか、渋いとか、素敵なオネエサマとか、そんな言葉を好んで使っている。でも言われた本人は、いぶされて汚い?とか、渋いって苦みばしってるってこと?、オネエサマじゃなくて名前で呼んで!などと思われているかもしれない。言葉が罪なのか、厳しい現実が罪なのか。言葉を生業にしているのだから、もう少し慎重にならなければ、ね。


それにしても不思議なのは、熟女という言葉があるのに、熟男という言葉はないですよね。男性の場合はなんて言うのかしら?字面を追って見れば、熟した女と書くのだから、フルーツで言えば「食べごろ」。ま、悪くないか。いやいや、熟した後は腐るのを待つのみ。やばい。腐る前になんとかせねば。と、くだらぬ妄想していて、気づくともうこんな時間!今日は〆切原稿があり、外出しないでパソコンに向かう一日と決めていたのに、あっという間に時が過ぎてしまった。やらなきゃ、仕事!


最後に、これが今日のおやつ♬
先週末にお手伝いした円頓寺商店街のイベントの時、
地元の小学生の子から「オネエサン、あげる!」と言われたので
喜びいさんでもらったおやつセット、なつかしのポン菓子もある!


下町の情緒【着物だいすき】

土曜日と日曜日、二日間に渡って、名古屋市西区の円頓寺商店街でおこなわれた「名古屋下町散歩日和」にて、のほほん茶会のお手伝いをした。多賀宮の中に緋毛氈を敷いて茶席にし、境内の一部から電源をとってIHヒーターでお湯をわかしてのお点前だったので、お茶会というよりももっとお気軽な、お抹茶を飲んで一服する場所という雰囲気だった。それがまた下町の人情味あふれる商店街の空気感とぴったり合っていて、お手伝いしている私も緊張感なく楽しむことができた。


多賀宮に毎日お参りするお年寄りが「あら、こんな所でお茶がいただけるの?」とスーパーの袋を横に置き、美味しそうにお抹茶を召し上がったり。商店街の歴史について語り始めるおじさんがいたり、昔は商店街に呉服屋さんがたくさんあったんだよ〜と話しながら私の帯をひっぱって触りまくるおばさんがいたり。私たちが育った昭和の時代もこんな風景だったなぁ。知らない人が普通に話しかけてきて、コミュニケーションしていた。「隣は何をする人ぞ」なんて感覚はなかったんじゃないかなと思う。未だに昭和の人情味がたっぷり残る円頓寺商店街。ここに住む友人が、改めてうらやましくなった。


これは「正調名古屋甚句」を謳う方々。名古屋甚句をご披露されて、その帰り道にお茶会に寄ってくださり、「名古屋甚句って聞いたことがないから聞きたい!」とお願いすると、いいわよ〜と気軽に謳ってくださったのだ。名古屋弁や名古屋の名所が歌詞に盛り込まれ、意味深な内容と独特の節回しに、ついつい体でリズムをとりながら楽しんでしまった。


この名古屋甚句、歌詞が書かれた紙をいただいてきたが、読むほどにその意味の深さが面白そうである。聞く話によると、どうやら色っぽい意味が隠されているらしく、それを面白がって昔の酒場でよく謳われたものなのだそう。考えてみれば、子供の頃になにげなく耳に入ってきた小唄や長唄なども、よくよく意味を追求すればかなり色っぽい歌詞だったりする。ドラマも映画もなかった時代は、歌の内容で恋バナを楽しんでいたのかしら。私の手元に、名古屋甚句の歌詞があるので、どなたか名古屋甚句の意味についてご存知の方、教えていただけないでしょうか?


最後に、のほほん茶会にわざわざ来てくれた、Mさんご一家、Iちゃん、Hさん、どうもありがとうございました。下町っていいでしょう?Hさん、賃貸物件もちらほらあるそうなのですよ。
そして、なんといっても我らがTさん。のんびりお散歩しに来てくださり、本当にありがとうございました。カンゲキでした。いただいた干ふのり、今朝のお味噌汁で早速いただきましたよ。美味しかったデス。


のほほん茶会のお知らせ【着物だいすき】

4日から8日まで、西区の円頓寺商店街にて開催されている「名古屋下町散歩日和」。路上ライブや落語会、屋台が出たり、暮らしのためになるお話を聞く会、下町を歩くツアーなど、様々なイベントが企画されていて、お着物で訪ねるといろ〜んな特典があるという着物好きにはばっちりお得な内容である。その中のひとつ「のほほん茶会」は、明日と明後日、多賀宮境内にて催される。お抹茶(お菓子つき)が350円、お着物姿の方は250円で大サービスが受けられる。
私は明日と明後日の二日間、この「のほほん茶会」のお手伝いをすることになった。お点前とかお運びとか、もろもろを担当させていただく。着物姿で、というオーダーに、昨夜からどのお着物を着ていこうかなぁ〜と悩み中。動きやすくて気楽な小紋あたりにしようかしら。
みなさま、下町情緒を楽しみに、「名古屋下町散歩日和」に、ぜひぜひお出かけくださいませ。
円頓寺商店街●地下鉄桜通線「国際センタービル」下車、徒歩5分程度
のほほん茶会●商店街内の多賀宮境内(丸一ストアの横)11:00~17:00ごろ
詳しい情報は→那古野下町衆


きのこ、キノコ、茸!【おうちごはん】


日本のきのこと、フランスのきのこが、我が家にやって来ました!
真っ黒なのはフランスのトランペットデモール(直訳すると死のトランペット、真っ黒な色から付けられたらしい)。その右にあるのはフランスのピエブルー(こちらは青い足という意味、下部が青みがかった紫色をしているのです)。左端にあるオレンジのものはフランスのピエドムートン(羊の足という意味)。ネーミングが見た目そのままで分かりやすい。見た通りの名前をつけるのは日本も同じで、お花が咲いたように見えるから花びら茸とか、あわびと形が似ているのであわび茸とか。


この日のメインは、きのこのオンパレード。フランスのきのこをニンニクとシャンパンで蒸していただき、その後にフランスと日本のきのこを混ぜてお鍋をいただいた。お鍋のダシは鶏ガラスープ。前の晩のうちに鶏ガラのダシをとっておき、身の方はバンバンジーで前菜に。鶏ガラスープをとっている最中、我が家の狭いキッチンはさながらラーメン屋さんのような匂いでいっぱいになった。お気に入りの音楽をかけながら料理の下ごしらえをするのが好きで、一人で歌ったりたまに踊ったりしながら狭いキッチンを右往左往している。毎回音楽が変わるからか、それとも踊りながら作るせいか、バンバンジーソースは作るたびに味が違ってしまい、安定しないのはなぜかしら?


さて、きのこ鍋のフィナーレは、お雑炊かおうどんか、いろいろ悩んだあげくにラーメンを選択。きのこのダシが出て真っ黒になったスープに茹で上がった細ちぢれ麺を入れ、黒こしょうをふってみんなで一斉にチュルチュルとすする!これが美味しいのなんの!今迄食べたことのない極上ラーメンが出来上がった。スープは、鶏ガラをベースに、塩、醤油少々、そして大量のきのこのダシだ。見た目は真っ黒なので、味が濃いかと思いきや、コクがあってさっぱりした日本人好みの味になった。う〜ん、病みつきになりそう。


スーパーマーケットに行くと、一年を通してほとんどの野菜が売られていて、便利だけれど旬のない市場になってしまっている。栽培できるエノキやぶなしめじなどは一年中手に入るけど、秋の山ににょこにょこと生える天然きのこだけは、さすがにこの季節しか味わうことができない。この日のお鍋と極上ラーメンも、まさに今の季節だけのもの。もう来年まで食べられないのか〜と思うと、美味しさは倍増するものだ。最後の一滴まで、みんなできれいに平らげたので、お鍋はすっからかんになり、そのお鍋を見て気持ちまで満たされた思いになった。旬をいただくことは、体にも心にも美味しい栄養になるのですね。


筆文字ライター【徒然なるお仕事】


これ、焼き鳥屋の壁を撮影したんじゃございませんよ。
そして、美味しいものブログでもございませんよ、Iケ谷さん。
事務所部屋のお掃除をしていたら、書類の山の中からこんな物が出てきたのだ。ワタクシが筆で書いた焼き鳥屋さんのメニュー名。
半年ほど前、付き合いの長い仕事仲間で友人でもあるコピーライターのO河原氏(あ、ほとんど名前ばれてる)から電話が入った。「焼き鳥屋さんのオープニングを手掛けることになったんだけどさ、筆でメニュー書かない?」「かなりの癖字だけど、それでいいなら書くよ〜」「んじゃ串カツ80円、ホルモン80円、心臓100円で書いてみて。先方に見せて通ったら改めてお願いするわ〜」


久々に引き出しから筆を出して半紙にメニューを書き、先方に提出し、その一部が書類の山の中に埋もれていたというわけだ。ご覧の通りの下手字なんだけど、かなり癖が強いので、それが知り合いのデザイナーたちにおもしろがられ、ステーキハウスのメニュー、ポスターのキャッチコピーやハウスメーカーのオリジナル商品ロゴを書いたりして、密かに筆文字ライターとしてデビューしているのであります。この焼き鳥屋さんのメニューのお仕事は残念ながらボツってしまったんだけど。


小学生の頃、実はこれでも、高名な書家の先生に習字を習っていた。先生はそれは立派な方だったが、生徒の私は一向に上手くならず、途中で嫌になってしまって、中途半端なまま習うのをやめてしまった。字が下手というコンプレックスを引きずったまま、高校生の頃は「丸文字」でごまかし、就職活動で履歴書を書く時に再び下手字のコンプレックスに見舞われる。ところが、仕事をするようになってから、私の文字の歴史は大きな転換期を迎えたのである。

毎日取材に出掛けてメモをとることが日常の仕事だと、聞いた話の要点をいかにスピーディーにわかりやすくメモするかがとても大切な技術となる。おそらく新聞記者などは、そういう技術を教え込まれるのではないかと思うのだけど、広告の世界ではそんな教授はなかった。
取材から戻って取材メモを見る時、乱雑にいい加減に書かれたメモでは、我ながらがっくりする。そこで、下手なりにも早く書けて見やすい術を工夫したのである。まずボールペンから水性ボールペンに変えてみた。筆圧が高い私は、ボールペンだと力が入りすぎて疲れてしまう。先が軽やかにすべる水性ボールペンにより、自然に流れるような字になっていった。紙の上でペン先がするすると流れてくれるので、力が抜けていい感じになったのだと思う。こうして読みやすい自己流の速記術のようなものが出来上がり、癖が強いけどおもしろいと言ってもらえるような字が誕生したのだ。


ラフスケッチに手書きコメントをつけると、癖字に味があって雰囲気がいいと言ってもらえるようになった。以来、少々有頂天になり、自分の下手字に愛情を感じるようになる(字を褒めてもらうなんて、なんといっても人生はじめての体験だったので)。お世話になった方にお礼状を書いたり、ご挨拶の折にお手紙を添えるようにして、他人様に文字で気持ちを伝えることができるようになっていった。こういうのを典型的な下手の横好き、と言うのでしょうね。お世辞にも上手いとは言ってもらえない字だけど、心をこめて書けば、気持ちは通じるのである。
そういえば、便箋にしたためる手紙というのをしばらく書いていない。公私共についついメールに頼ってしまう今日このごろ。埋没していた「ホルモン串カツ」が出てきたことだし、たまには長いお手紙を書いてみよう!と思いついた晩秋の夜であった。


偉大なるごはんの力【おうちごはん】

秋のごはんと言えば、何を思い浮かべますか?
いくら、サケ、栗、さつまいも、さんま、松茸、しめじ・・・。
そんなところでしょうか。
今日作ったのはコレ、シンプルな蕎麦茶ご飯。


白米に蕎麦茶の実を入れてそのまま炊くだけのカンタンご飯。炊きあがった時に蕎麦の香ばしさが部屋中に漂うんでございます。ふっくらやわらかなご飯の美味しさと蕎麦の香ばしさの両方を一度に楽しめるので、新蕎麦の季節になると思い出したように炊いている。(もっともこの蕎麦茶は新蕎麦で作られているわけではないので、あんまり季節性があるとは言えないんだけど)


子供の頃から炊き込みご飯が大好きで、母がたまに作ってくれる具だくさんの炊き込みご飯は日本一だと思っているので、今でも必ずおかわりしてしまう。つやつやの白米はもちろん美味しいけれど、ご飯に色がついていたり、上にいくらが乗っていたり、豆やら木の実やら、お魚が一緒に炊かれていたりすると、無性に食欲をそそられる。
私が今迄に一番びっくりしたご飯は、バブル華やかなりし頃のキャビア茶漬けだ。とあるワインラヴァーの会で鳥羽方面に旅行した時のこと。あらゆるレア物シャンパンを飲み、鳥羽の美味しいお魚料理を食べた後、「ご飯」の時間になった。皆のところにお茶碗が行き渡ったころ、おもむろに手元には一人一瓶のキャビアがっっっ!!!ご飯の上にキャビアを存分にかけ、その上にわさびを乗っけてお茶漬けにすると美味しいのだそうだ。早速試してみると、確かにおいし〜〜〜い!いくら茶漬けと同じ要領で、キャビアの塩分と油分が炊きたてご飯にくるまれ、お茶の清涼感でマスキングされて、見事な味になった。


キャビア茶漬けだなんて分不相応なご飯はともかくとして、「ご飯」はどんな場面でもしっかり活躍して、すべての人に想い出を作ってくれる食材である。白米が炊きあがる時の湿り気のある匂いにはなんとも言えないノスタルジーを感じるし、炊き込みご飯はその家庭ごとの味わいがあるはずだし。ご飯の形態が変わって、おにぎりやお茶漬け、お雑炊にしても美味しい。国民食であるカレーライスだって、ご飯がなくてははじまらない。


そういえば、とある大学の栄養学の先生を取材した時のお話。パンと和風のおかずやおみそ汁は合わないけど、ご飯なら和風のおかずはもちろん、ステーキだってスープだって美味しく食べられる。洋風でも中華でもご飯と合うし、アジアンやロシア料理だって合う。ご飯は国籍を問わずどんなおかずとも相性の良い万能選手なのだと。そりゃそうですよね〜、世界中で最も高貴な飲み物とされるシャンパンの最も優れた友と言われるキャビアまで、ぴったりと合わせちゃうんだから!ご飯は世界に誇る偉大な食材なのだ。お米を作ってくださる農家の方々に深く感謝して、今年も新米を美味しく炊こうと思う。


コピーライターのSEO対策【徒然なるお仕事】

今日日曜はお仕事に役立つ講座受講日。アイデアソースの前田女史からお誘いを受けて、SEOライティング実践講座に出席した。web検索で上位にランキングされるためのコピーライティングの実践的なコツや、検索エンジンの動向、SEO戦略、コンテンツの企画やキーワード戦略などを総括して学ぶ講座だった。
私がコピーライターの仕事を始めた当初はもちろんwebのコピーなどなく、もっぱらテレビラジオ媒体か、あるいは広報誌や新聞、雑誌などの印刷媒体がほとんどだった。それが現在では、私が制作させていただくコピーの約3割から4割はwebで展開されるサイト上のものとなってきている。もちろん、中には印刷媒体とwebのコピーが重複する場合もあるので、のべ量的な数え方をすればwebの割合はもっと増えるだろう。


商品や会社をアピールする文言としてのコピーライティングは、媒体が異なると表現方法が変化するのは当然ではあるが、webの場合はかなり特殊で、検索エンジンに引っかかることが重要な要素になってくる。つまり、広告表現上では素晴らしいキャッチコピーも、webで上位にひっかかるためには役に立たないことが多く、web検索で引っかかりやすい言葉を戦略的に用いたライティングが必要になってくるのだ。


ご存知だとは思うが基本をご紹介すると・・・web検索する人が頻繁にキーワードに用いる単語を念頭において、それをタイトルなどに積極的に使うことがSEO対策となる。一般論として、なるべくなら英語や意味不明なカタカナを用いることなく、わかりやすい日本語で表現するべきなのだとか。


こんな風にして盛りだくさんの講座が進み、ふむふむと納得しながら聞いていたら、いつもの悪い?癖か職業病か、講師の方のお話を知らぬ間に文字校正してしまった。文字校正というのは、単純に文字や表現に間違いがないかどうかをチェックするだけでなく、社会通念上で問題がないかなどもチェックするのがその範疇である。もちろん今日の講座は納得の連続で、それを勝手に文字校正するなんておこがましいことだったが、気になったのはそのお話に占めるカタカナ含有率の高さだった。


webの専門用語は、コンバージョン、メタ、ハイパフォーマンス、ランディングページなどなど、カタカナ英語ばかり。それを説明するための形容詞や単語にもカタカナ英語を用いることが「社会通念」となってしまっている。だから、わかる人にはわかる説明も、わからない人にはほとんど外国語にしか聞こえない。


講座の帰り道、日曜の夕方のオフィス街は、スイッチが切れたみたいに静まりかえっていて、自転車を暴走する私にはうってつけのサイクリングロードとなった。障害物なくサイクリングできる時は良いアイデアが浮かんだりするのである。そこでカタカナ含有率の高いお話を反芻しながら、自分なりのSEO対策を導き出してみた。コピーライターが必要とするスキルは、専門用語を知ることではなく(もちろん必要ではあるけど)、SEOの仕組みを知ることとわかりやすい言葉選びだ。webと別の媒体では、言葉の使い分けは必須条件になってくるけれど、結局は「理解できる日本語」をきちんと使うことがコピーライターの使命なのだ、と夜空に向かって誓ったのである(星飛雄馬風にね、ふるっ)。


悲しくてやりきれない【一杯の幸せ】

胸にしみる空の輝き、今日も遠く眺め、涙を流す。
悲しくて悲しくて、とてもやりきれない。
このやるせないもやもやを誰かに告げようか。

サトウハチローさんによる名歌を作曲した加藤和彦さんが亡くなった。
一ファンとして、心よりご冥福をお祈りする。

人は誰しも、悲しくてやりきれない、と思う日が、一年に何度かは訪れる。残念ながらそんな一日を過ごす羽目となった。
やることなすこと裏目に出て、耳に入ってくるのは、悲しい情報ばかり。お仕事もイマイチうまく事が運ばず、なんだか朝からむしゃくしゃしたり、悲しくなったりする一日だった。
お仕事が終わったのは22時過ぎ。自宅に帰っても冷蔵庫には何も買い置きがないし、おなかも空いているので、適度に食事もでき、飲める場所を探すが、女性一人で入れるお店は思った以上に少ない。「お一人様」ばやりだけど、それは普段から一人でかっこよく食事したりバーで飲んだりできる女性がやることで、私の場合、なんとなく間が持たなくて、うまくいかないことが多いのだ。ええい、こいう日はさっさと帰宅して、いつもお願いしているマッサージのおじさんに来てもらい、体のメンテをしましょう!と思いつき、電話をすると、なんと「胆石で入院中なんですよ〜」とのこと。またまたガックリきて、やはり出掛けることにした。


一人じゃどうもためらわれる・・・ということで、遅めの時間にいろんな人にお誘いの電話をするが、見事にふられまくり、再び「一人」を深く実感することになる。最後の砦のつもりで、甥っこノゾムを呼び出そうと画策するが、あっけなく「あ、オレまだ会社。しばらくかかりそうだけど、なんか用?」と冷たくあしらわれ、撃沈。


というわけで、意を決して我が家から十数メートル!のスペインバルBar Rabanoへ。おいしいタパスや生ハム、気軽なカヴァが楽しめて、スペインのバルでぐたぐた言いながら飲んでる感じが気に入っているお店だ。
この夜もカヴァに、イベリコベジョータと羊のチーズで一人ぼんやり妄想を楽しんだ。


カウンターで一人、というのは、女性の場合は間が持たないものである。話相手もいないので、ひたすらカヴァを呑み、妄想を繰り返していると、後ろからある会話が聞こえて来た。
簡単に言えば、会社の人同士が呑みに来ていて、約一名がお酒に酔って上司らしき人にからみ、女性が間をとりもとうとして必死にとりなす図、という感じ。
内容はよくわかんないけど、酔った人の感情の昂揚具合とか、それをかわそうとする上司の発言とか、なんとかしなくちゃと必死になる女性の、それぞれの人間関係がうっすら見えてきて、一人でお酒を飲む私にはカッコウの酒の肴である。
最初はうざったいなぁと思っていたのに、知らぬ間にそれを楽しんでしまい、お酒がどんどん進んでしまった。

結局、他人様のごたごたとか、もやもやとかに接すると、自分の身についさっきまでふりかかっていた「嬉しくない事情」はどこかへ飛んでいってしまうのが、人間の性なのだろうか。こういうのを人の不幸は蜜の味、というのかな。

悲しくてやりきれなかったはずのもやもやも、美味しいカヴァと後ろの席の酒の肴のおかげで、どこかに行ってしまったようだ。こういうマイナスな発散の仕方は良くないなと思いつつも、この宵はお酒に感謝して眠ることができた。

この次の日には、やりきれない思いを一部共有してくれたIさんが、美味しいお食事に誘ってくださった。どれもこれも美味しかったな〜。これでやりきれない思いもむくわれるというもの。Iさん、ありがとうございました。

さて今宵も、おやすみなさい。良い夢を。


唐獅子牡丹【伝統工芸の職人たち】

唐獅子牡丹と聞けばすぐに任侠ものの映画や彫り物を想像してしまう人、高倉健の見過ぎです。実は、かくいう私も、唐獅子牡丹と言えばやっぱり背中の彫り物んでしょう?と思っていた一人。
もう半月以上前のことになるが、松坂屋美術館で開催されている「東本願寺の至宝展」を見に行った時のこと。彫り物ではなく、それはそれは可愛らしい唐獅子牡丹に出逢ったのだった。


世界最大級の木造建築で、ふすま絵やら日本画やら、知られざる美術品の宝庫でもある東本願寺。私の家の宗派でもあるので、これは観ておかねばと出向いたのである。ちなみに私の祖父母のお骨は、京都・東本願寺のなんとかという台座???の下に眠っているはずなので、京都に行く際にはなるべく寄ってお参りするようにしている。このチケットにも印刷されているが、望月玉泉という日本画家による孔雀のふすま絵が、もう筆舌に尽くしがたいほどの素晴らしい物だった。恥ずかしながら、この展覧会ではじめて知った作家だったので「うわ〜すご〜い」と感嘆の声を挙げながら、このふすま絵の前を行ったり来たり、近づいたり遠のいたりしていたら、係員の人に不審な目で見られてしまった。だって〜孔雀の胴体の肉感とか羽根のふさふさした重なり具合が本当にすごかったんですもの〜。でも、こんなリアルな絵がふすまに描かれてて、夜中にご不浄に起きた時に見たら怖いでしょうね〜。


こちらが、同じく望月玉泉による”ついたて”で、「唐獅子牡丹図」。獅子のたてがみの筆使い、まるで動き始めるかのような躍動感、獅子と同化しないように細かいタッチで描かれた牡丹、そして真ん中のこの間合い。いや〜見事だわ〜と独り言を吐いていると、ここでまた先ほどの係員の視線を感じ、すごすごとついたての裏面にまわる。


そしたら、裏面にはこんな絵がっっ。紺色の獅子が蝶とたわむれているではありませんか。まだ幼い獅子が蝶にじゃれつこうとしている様子が、いかにも愛らしい。係員の存在を忘れ、か〜わい〜!と叫んでしまったら、近くで観覧していらしたやんごとない雰囲気の老婦人も「本当に可愛いわね〜」と言ってくださった。老婦人を味方につけた勢いで「ほ〜らね、素敵だなと思ったら声に出したっていいのよ!」という思いで係員をチラ見してみた。そしたら今度は係員に知らん顔された!無視かよっ!


というわけで、これまた今週の日曜日までではありますが、この展覧会に是非お出かけくださり、唐獅子牡丹図がいいなぁと思われたなら、ぜひその前で感嘆の声をおあげくださいまし。美術品は心に感じたままに観覧するのが一番楽しいと思うのでございます。皆さん、どう思われますか?