伝統芸能の継承者たち

市川桜香さんの会【伝統芸能の継承者たち】


名古屋市能楽堂で開催された市川桜香さんの会にお邪魔してきた。市川桜香さんと言えば、むすめ歌舞伎を始められたことで有名な名古屋の舞台芸術家で、歌舞伎の市川宗家から市川姓を許されたことでも知られている。お名前はよく存じていたのだが、舞台を拝見するのははじめてのこと。ヘアメイクの村上由見子さん、スタイリストの原結美さんと一緒に拝見した舞台は驚きの連続だった。まずは最初に新作「天の探女」。これは能の「岩船」をベースに、能と狂言と歌舞伎の要素をひとつの舞台に融合させたものだった。この3つの芸能は、伝統芸能という一言でまとめてしまうには、それぞれあまりに多くの要素を持っている。それを舞台の上で融合させるのだから、相当なご努力が必要だったはずと素人ながらに拝見した。脚本は市川桜香さん自ら筆をとられたようだ。結果、私が感じたのは、そこには女性ならではの美しい表現の融合があったということ。能の荘厳さ、狂言のペーソス、清元の華やかさ、歌舞伎の豊かな台詞まわし。それらすべてが女性特有の器用さにより、きれいにまとまった脚本になっていたのだ。きっと、むすめ歌舞伎をはじめられたご経験が生きているんだろ〜な〜と考えていると、場内は舞台演出で真っ暗に。ストーリーに登場する不思議な光る石を演出するため、能楽堂が真っ暗になったのだ。御園座の照明の方がいらっしゃって照明を担当されたそうだが、このような舞台で照明の演出により舞台を効果的に見せるとは、これまた新しい試みであり驚きだった。芸能に限らずどんなことも「公衆の前ではじめて試み発表する」というのは、勇気と臆病さの両方が必要になる。勇気だけでは空回りする。そこに臆病なまでの繊細さがないと実現できないはずだ。今回の桜香さんの初の試みの奥には、どんな臆病さが渦巻いていたのか。最後に挨拶に立たれた時の桜香さんの涙が、その奥深さを物語っているようで、見知らぬ私まで胸が熱くなった。


途中、お話をしてくださった能楽師の藤田六郎兵衛さん。
能の監修と能楽笛方として舞台に上がられた。
きりっとした佇まいには、
勝手ながら、いつも惚れ惚れとさせていただいている。むふ。


充実した午後を過ごして、共に泉1丁目住民である由見子さんとタクって帰る途中、ついつい話に花が咲き「ちょっとお茶する?」がいつしか「一杯だけ呑んでく?」に早変わり。ご近所のバーでシャンパンとビールで乾杯し、伝統芸能の高尚さとは真反対の世間話に夢中になった。ま、伝統芸能のネタも、男女の恋愛話なんかがほとんどなのだからして、こういう世間話から芸能が生まれるんでありますよ、いやホント。


名古屋をどり2010【伝統芸能の継承者たち】


今年もお邪魔してまいりました、名古屋をどり。前宣伝がかなりすごかったということもあり、会場は満席状態。昨年の鯉三郎さん記念の公演とはまったく趣を変えて、今年は「おどりヴァリエテ」と題した劇が主軸になっていた。なんと作は作家の荒俣宏さん。劇作家ではないはずなので、多分はじめての舞踊劇だと思われる。西川右近さん、まさ子さん、そしてゲストに加藤晴彦さんを迎えてのまったく新しい試みだった。そうは言っても、舞踊好きな人はどうしても伝統的な西川舞踊を期待してしまうので、こうした試みは受け入れられにくいはず。そこに敢えて挑戦されたのだから、出来不出来よりもその舞台精神に敬意を表するべきだと思う。


一年前は母と一緒に名古屋をどりを拝見したが、母が若い頃から憧れていたという茂太郎さんの舞に年甲斐もなく喜んでいたっけ。今年は残念ながら引っ越し疲れと夏バテしている母はお邪魔することができなかった。そしたら、舞台は長唄[棒しばり]で茂太郎さんが出演していらっしゃるではありませんか。母に報告しなくっちゃ、と食い入るように見せていただいた。棒しばりは歌舞伎でも舞踊でもよく拝見する演目で、随所に笑いとペーソスが織り交ぜられた内容は何度見ても面白い。何度も見た演目だと、役者さんの個性や技の違いがハッキリと分かるので、楽しみも倍増するというもの。


さて、一人でお邪魔した私は幕間になるとイマイチ手持ち無沙汰になる。そこでパンフレットの出演者欄を見ながら、あ、この芸妓さん知ってる〜確か叔父に連れて行ってもらったお店の人だ〜とか。このお姐さんは確かあのクラブの人・・・などと、まさしくオジサン目線でにやにやしながら熟読。パンフレットには当然広告スペースもたくさんあり、あ〜あのステーキのお店が広告出してる〜、あれ〜あの料理屋さんはスペース大きいな〜などと、ついつい広告屋目線で計算をしちゃうあたり、私もいやらしい広告屋そのものである。オジサン+広告屋=我ながらいやらしいわ〜。


こちらは、今回の引っ越しで押し入れの奥から出てきた、
昭和38年(私が生まれる前デス)の西川流のとある会のパンフレット。
祖父が後援会長を務めており、
当時小さかった姉が舞踊で出演した時のものだ。


この文字は祖父の筆によるもの。
(筆に覚えのあった祖父はあちこちに筆跡を残しているのだ)
春菜会、である。
今も岐阜市に現存する西川流派の会で、
春菜先生が現役で指導にあたられている。


このパンフレットの何が面白いって、広告ページなのだ。昭和38年、高度成長期を迎える日本で何が売れていたか、どんな世情だったのか、広告スペースを見ることで一目に理解できる。今年のパンフレットも、数十年後にはおそらく名古屋の広告業界の面白い資料となるに違いない。



やっぱりこの時代は車ですよね〜!今では完全にクラシックカーになっている型が、まさに花形モデルだったのだ。さすがに懐かしいという感覚は私にはないけど、なんと言えばいいのか、日本がひた走っていた時代の良い香りが広告から匂ってくるような気がする。


どの広告も、レトロでかわいい!このデザイン、コピー。どれをとっても、手作り感あふれていますよね。左下は祖父の会社のもの。MACできれいにデザインされちゃった現代の広告にはない、なんとも言えない味わいがあるなぁ〜。


こちらは西川鯉三郎さん。
現在の右近さんのご尊父さまにあたられる。
西川のお家元のご挨拶文だ。


これが我が祖父の挨拶文。
あれ、おじいちゃんってこんな顔だったっけか?
私の記憶の中には、なんとなく植木等がニヒルになった感じと
勝手に擦り込まれているのだけれど。


最後にお恥ずかしながら、我が姉の写真。この時の舞台では「お染久松」を踊ったのだそう。本人にはまったく記憶が残っていないらしい。でも間違いなく当時5歳のかわいい少女だった。今は面影ないですけどね(笑)。
このパンフレットは、広告の資料として面白いだけでなく、個人的には家族史にもなるので捨てずにとっておこうと思っている。


赤堀登紅さんの夜桜会【伝統芸能の継承者たち】

昨年九月の「観月会」に引き続き、日舞赤堀流師範である赤堀登紅さんの「夜桜会」にお邪魔してきた。徳川園にある「蘇山荘」にて行われる会で、お庭の特設舞台で登紅さんが舞踊を披露してくださるのだ。友人ではあっても彼女の舞踊を観るチャンスはなかなかないので、私にとってはとても心待ちな定例会となっている。ワイン好きでもある登紅さんの周りには、やはりワイン好きのご友人がいっぱい。着いて早々にシャンパンをいただいていると、そこにボランジェ’03を持ったとある国のプリンスが。ボランジェをいただきたくて、最初のシャンパンを一気飲みしてしまったじゃありませんか。嗚呼なんてゲンキンな私・・・。こんな感じでお食事やワインと談笑を楽しんでいると、登紅さんの舞踊が始まるというので、グラスを持ったままお庭へと移動。あれ?さっきまでシャンパンをストローで飲んでいたけど、大丈夫かな(舞台化粧していらっしゃるのでストローで飲んでいらした)。ま、そのあたりはプロですからね、まったく問題ないのでしょう。


という私の思いはぴたりと合っていて、舞台に立った途端に周りの空気まで変えてしまう登紅さん。舞踊は「大和楽 花吹雪」。
登紅さんの「花吹雪」を観ていて、12〜13年ほど前に御園座で観た中村時蔵さんの「手習い子」を思い出してしまった(実は時蔵さんは一番好きな歌舞伎役者さんなのです)。「手習い子」は、少女がお稽古帰りに蝶とたわむれたりして遊ぶ様子を舞踊にしたもので、その当時40代だった時蔵さんは、どこからどう見ても十代の少女。そのあまりの可愛さに惚れ惚れしたのを覚えている。この夜の登紅さんもそうだった。30代の素敵なマダムである登紅さんの姿はどこにもなく、舞台の上には恋する少女が初々しく舞っていた。


どうですか、この姿。
ラインがとても美しいですよね。
いい姿〜。ほれぼれ〜。


合間をぬって登紅さんと記念撮影。
前回通り、ちゃんと床山さんによる鬘と
舞台化粧をほどこしたいでたちでございます。
お衣装にはちゃんと桜の花。素敵ですね〜。


フラッシュをたきたくなかったので、写真がこんなピンぼけでごめんなさい。2つ目の舞踊は「大和楽 鐘」は、安珍清姫伝説が題材の演目。そうそう、あの道成寺のお話ですね。最初の花吹雪とは真逆とも言える女性の情念を描いた舞踊である。初々しい少女は恋に身を焦がす情熱の女性へと早変わりしていた。どちらも女性の純粋さという意味では同じなのに見事に対照的となった2つの舞踊。まるで桜の咲き始めから散り際の美しさを見たようで、登紅さんの熟慮された選択はさすがでございました。腰をコンパスのポイントにして、上体と下肢が自由自在に描く美しいライン、こういう舞踊を見ると胸がスッキリする。それにしても、決して十分とは言えないこの広さの舞台では、おそらく身体の動きや振りを小さくまとめなくてはいけないだろうし、観る人の立ち位置はお庭やお座敷と視点がバラバラだったりするので、登紅さんもさぞ細かな配慮が要ったのではないかと拝察する。それでも、私のような素人にも舞踊っていいなぁと思わせてくださるのは、本当にさすが、ですね。先般のコラムに登場した挟土秀平さんの職人技に言葉をなくすほど感激した私が、今度は伝統芸能の世界でも精緻な技にふれることが出来た。長い時間をかけて培われた技やセンスって、本当に素晴らしいですね。四月の肌寒さから五月の爽やかさへと変化した気候同様、心も晴れやかになり、かくも嬉しい春の宵でありました。


小三郎さんと魯山人とブラジャー【伝統芸能の継承者たち】

日曜日にミッドランドスクエアで催された「狂言の宴」に出掛けてきた。狂言を観るのは何年かぶり。最後に観たのは確か例のお騒がせの自称和泉流家元のあの方の舞台だったような気がするので、本当に久しぶりの狂言である。今回は名古屋在住の「本物」の能楽師和泉流狂言方、野村小三郎さんの舞台である。狂言は、なんといってもコミカルな内容が多いのと、現代の口語に近いので聞き取りやすく、特に説明を聞かずとも舞台に集中して楽しむことができる。難しいモノはからっきし苦手な私でも、予備知識なしに観ることができた。伝統芸能に興味はあるけど、難しそうと思っている人の入門には狂言が一番入りやすいのではないかしら。


この日の演目は、「三本柱」と「井杭」。間に素囃子「神楽」が入った仕立てであった。狂言はどちらも可笑しみにあふれていて、わかりやすい内容で十分に楽しむことができた。人間の意地悪な部分や滑稽な部分がお話の題材になっているので、溜飲が下がると言ったらいいだろうか。なにかスカッとした気分にさせてくれる。若手注目株の野村小三郎さんの丁寧な仕舞いの舞台に、気持ちの良さを感じた一日だった。ミッドランドホールという特殊空間での舞台に、きっと細かなご苦労をされたと拝察する。今度は能楽堂の檜舞台でぜひ拝見しようと思う。
素囃子の「神楽」では、これまた久しぶりに気持ちの良い音に出逢うことができた。後藤孝一郎さんの小鼓の音が素晴らしく、なんとも言えない円熟味があるのだ。母と舞踊を観に行き、鼓の美しい音色に出逢うと、いつも母が「あぁ気持ちが良い、頭から音が抜ける気がする」と言う。今日、私が感じた気持ちよさは、母が言うあの感覚と同じようなものかしら。小説「きのね」(宮尾登美子)で主人公が舞台の上で打ち鳴らされる柝の音を聞き、じんわりと感じ入るというシーンを思い出した。ミッドランドホールの音響は決して良いとは言えなかったけど、それでもあの円熟味のある音を鳴らすのだから、さすがに年季の入り方が違う。これまた、次回は是非能楽堂で拝聴したいものである。


ミッドランドで狂言を観た後は、JR名古屋高島屋10階で催されている「魯山人展」へ。いやいや、すんごい人でした。魯山人って人気あるんですね〜。今回はポルトガルから里帰りしたという絵画作品が目玉で、明らかに琳派の影響を受けまくったと思われるレイアウトの大きな作品だった。かの伝説の料亭「星岡茶寮」のために作陶した陶器もたくさん展示されていた。鑑賞用と料亭で使用するための器では、まったく作り方が違うので、改めて現物を見てびっくり。正直に言うと、実際に星岡茶寮で使われていた器を見ても、あまりピンとこない。なぜかしら。多分、料理が盛られて「ナンボ」の器だから、料理と共に愛でなければ意味がないからかな。と考えていたら、展示されている物と同じ器に「辻留」の料理人が作った料理が盛られた写真が奥に飾られていた。でも〜やっぱり写真じゃ伝わらないんですぅ〜。器と料理のバランスの良さが。
器は料理のキモノであるという魯山人の言葉に、恐れ多くも言葉を付け加えさせていただくなら、器は料理のキモノであり、実際に使って愛でてこそ意味のあるもの、ということですね。キモノだって、美術館で飾られているよりも、実際に帯や小物と合わせて着こなしてこそ、素敵だなと思えるものですもの。
魯山人の器はもちろん入手できないけど、せめて「うつし」くらいは手に入れて、お料理に精を出してみようかな〜と妄想しながら鑑賞が終わり、気づいたら夕方。すっかり陽も暮れておなかも空いていた。連れと共に発した言葉は「ね〜ね〜、これからなに食べる〜?」はてさて、魯山人鑑賞効果があったのかどうか・・・。


さて、日にち変わって小三郎&魯山人鑑賞の2日後、時計の電池交換のため同じくJR名古屋高島屋の10階に訪れた。2日前とまったく同じエスカレーターで昇っていくと、そこには老若問わず女性の黒山だかりがっっ。天井からぶら下がっている看板には「半期に一度!ワコール大感謝セール」と書いてあるではありませんか!あれ、ここ、2日前には魯山人の展覧会やってたとこだよね〜と思いながら、女性の黒山だかりを横目で鑑賞しつつ、半期に一度の言葉につい心惹かれるワタクシ。ふらふらと黒山の中へと吸い込まれると、そこで、うら若き女性同士の会話が聞こえてきた。「これは〜勝負下着で、こっちは普通の日用にする」「その色だとキワドクない〜?」ふむふむ、勝負用と普通の日用で使い分けてるのか〜と観察しながら、とある理由で勝負下着を必要としないワタクシは、結局何も買わずにスルー、女性の蠢きを後ろにして時計売り場へと急いだ。それにしても、魯山人の高尚めいた会場が、2日後には欲だらけのブラジャーの山になるとは、百貨店というのは本当に面白い空間でございますね。


再び・・・花祭りで得たもの【伝統芸能の継承者たち】

いよいよ年の瀬。とは言うものの、昔のような年の瀬のライブ感が随分希薄になってしまったなぁと毎年ながら思う。子供の頃は、冬休みになると祖父母の家でお餅つきがあった。祖父母の家にはおくどさんがあったので、もち米を炊いて、父や叔父がお餅をつき、親戚中のお正月用のお餅を準備した。つきたてのきなこ餅を食べさせてもらうと、あぁもうすぐ紅白歌合戦、除夜の鐘、そしてお年玉だなぁと心がうきうきしたものだった。
毎年の行事だったお餅つきがなくなり、自分で仕事をするようになると、いつしか年の瀬感がなくなっていったように思う。ひとつには、フリーランスで仕事をしていると打ち合わせや〆切がなくなった日からがお休みとなるので、冬休みのラインが極めて曖昧になるからだと思う。今年も昨日まで打ち合わせがあったし、お正月の間の「なんとなく宿題」みたいなものも幾つかある。子供の頃は冬休みになった途端に、勉強のことや学校のことなどをすっかり忘れ、頭は遊びに切り替わっていたというのに、オトナになると頭をお休みモードに切り替えるのはこんなにも難しい。
だから、いつも年の瀬になると、子供の頃の楽しかったお餅つきのことを思い出し、冬休み気分を一人勝手に想像して盛り上げているのである。


今年もお餅つきや祖父母のことを思い出していたら、ある人から「想い出」にまつわるメールをいただいた。先日のコラムで紹介した花祭り、そこで出逢った裕斗くんパパ、佐藤裕さんである。一度しかお逢いしていないのに、その後のメールのやりとりですっかり親交を深め、その佐藤さんがご自身のブログで私のことを「想い出」をテーマにして書いてくださったのだ。そのお礼メールを差し上げると、佐藤さんのお人柄がわかるやさしい文章でお返事をいただいだのだが、それがとてもとても素敵だったので、ご本人の了解を得て、ここに紹介させていただく。


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自分の仕事は介護福祉士です。救護施設という福祉施設で10年ほど働いています。福祉施設ではこの寒い時期、かならず利用者の方が亡くなります。昨日もそうでした。そんなことが身近にある現場で働いていてよく思うのは、この人は生きたことが幸せだったのだろうか、たくさんの思い出を作れた人生だっただろうか、ということです。そんな気持ちのときには、なんていうか、明日、、いや、この先いつだって、自分もどうなるかはわからないのだから、一日一日を大事に生きよう、みんなで楽しい思い出を残そう、と強く思います。

思い出には形がなくて、見えるものではないけれど、とてつもなく強いエネルギーがあるような気がします。世の中のあらゆるものは、思い出の力が働いて出来ているんじゃないのかな、と思うこともあります。

花祭りからは、たしかに神さまの力を感じます。あの湯ばやしの時の裕斗の姿は親の自分も驚きました。ふだんは引っ込み思案なやつなのに、花祭りになると変貌する不思議な子供です。それが祭りの力、神さまの力なのかも知れませんね。

常日頃から思うのですが、もしかしたら馬鹿みたいな空想ですが、あの奥三河の山の中に、あれほどエネルギーに満ちた祭りが伝承されていることの真の意味は、昔の人々が、人々の願望・欲望の行く末を案じて荒んだ未来を予見し、いつまでも大切に伝承されるよう山奥の村に仕掛けた記憶装置なのかもしれません。
祭りにはタイムカプセルのように人類の叡智である大切な記憶がたくさん詰め込まれていますから。きっと、世の中がダメになりそうな時に、あの奥三河の山の中で大切に伝承されてきた祭り、そして祭りと共に生きてきた人々の道のりは輝きを増し、人類が突き進んできた人間本位の考え方から脱却するきっかけとなるような、何か光り輝く未来を指し示しているような気がします(…なんか、おおげさですね)。

そんな大事な宝を、もっと掘り起こしましょう。
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ね、素敵な感性ですよね。花祭りで、本当にいろんなコトやヒトと出逢えたことに改めて感謝!佐藤さんの文章を読んで気持ちがすっきりした私は、2009年の楽しかった想い出をいっぱい振り返り、楽しい想い出で頭をいっぱいにして2010年を迎えようと思っている。


これは花祭り会場に飾られていた数々の切り絵の中のひとつ。
夫婦円満を祈願したものらしく、
可愛らしいカップルの姿が印象的だった。


これは先日ロケハンに行った
橦木館」で見つけたステンドガラス。
カメラは私のプチカメラ、撮影は巨匠なぎさカメラマン。


この写真にちなんで、2010年は、みんな仲良く。これをテーマにしようかなぁ〜。
皆様、良いお年をお迎えくださいませ。


奥三河・東栄町の花祭り Vol.2【伝統芸能の継承者たち】

またまた花祭りのお話。このお祭りでは、地元の方々との会話から、本当にいろんなことを学ばせていただいた。山里の小さな集落で暮らす彼らの、昔から受け継がれた知恵や知識の深さは、いちいちうなづけるものばかりだったし、地元を愛するがゆえの懸命さには、絶対的な希望とある種の諦観が微妙に混じり合っていることを知る事ができた。


祭り会場には「接待所」と呼ばれる場所があり、お見舞いを持っていった人はそこで接待を受けることができる。地元のお母さんたち手作りのご飯とお酒をいただきながら、お父さんたちがいろんな話をしてくれた。東栄町を離れ、普段は岡崎や豊橋に住んで仕事をしている人たちも、このお祭りにだけは必ず帰ってくること。このお祭りがあるから、東栄町にある家を手放さず、持ち続けていること。祭りの舞は昔から、東栄町の家に生まれた男児だけに許されていたが、子供の数が減ってしまった今、女児も許されるようになり、さらに東栄町以外の町から子供を借りてお祭りを継承させる努力をしていること。そして、なんと!「お嫁にいらっしゃい」という有り難いお言葉までかけていただいた。田舎暮らしはいいよ〜と。Kさん、あの時はありがとうございました。


こちらは舞台上の囃子方。太鼓をたたいているのが、保存会長の小野田さん。誰よりも動き回り、誰よりも真剣な眼差しで祭りを見つめていた。小野田さんの真摯な姿はホントにかっこ良かったです!その左のベレー帽のおじいちゃまが、前保存会長で御年80歳。小林の花祭りの生き字引と呼ばれている人で、少しでも多くのことを次世代に言い伝えようとする姿にすっかり魅了された。
前日の準備の時にはジャージやフリース姿だった人たちが、ひとたび祭りが始まると、着物を纏い、笛を吹き、太鼓を鳴らし、唄を謳う。ごく普通のお兄さんやオジサンだった人が、お祭りの姿になるときりりと見えて、いきなりかっこ良くなる。正直言って、前日とお祭り当日では同一人物だとは思えない方が何人もいらっしゃった。これは花祭りの魔法だな、きっと。


そして、なんといっても注目を集めたのは、4歳の裕斗くん。稚児の舞で今年はじめてデビューした舞子である。40分近い時間を、見事に舞いきった。大人でも緊張して間違えてしまいそうな難しい舞を、数回の練習でよくも身につけたものだと思う。聞けば、裕斗くんのご先祖は、花祭りに関わる神職だったのだとか。裕斗くんパパが花祭り好きで東栄町に毎年通ううちに、裕斗くんに舞ってみないかと声がかかったそうだ。ご先祖が花祭りに関わっていたことは、舞子になることが決まってからわかったというのだから、縁というのは本当に不思議なものである。きっと神様が引き寄せてくださったんでしょうね。花祭り好きな裕斗くんパパはお隣の長野県阿南町で暮らし、地元愛に満ちた生活の様子をブログにされているので、ぜひおたずねください。


午前に出番だった裕斗くん。深夜まで元気いっぱいにお祭りを味わっていた。最後の湯ばやしの舞が始まった時、裕斗くんが舞いたそうにしていたので、「裕斗くん、お兄さんたちと一緒に舞っちゃえば!」と言うと、神妙な顔で「鈴がないからダメや」と一言。舞子が手に持っている鈴のことを言っているのである。小さいながらも、お祭りのルールを体で覚えているんだな〜と感心。ところが!やがて湯ばやしがクライマックスとなり、会場全体が高揚感に包まれたその時、裕斗くんはもうガマンできない!といった面持ちで、いきなり一人舞い始めたのである。堰が切れたように夢中になって舞う裕斗くんの姿に、私は再び神様の存在を感じてしまった。裕斗くんの背中を借りて、神様は希望に満ちた未来を語ってくれたような気がしてならない。裕斗くんが、来年の花祭りではどんな舞を見せてくれるのか、体が覚えたあのリズムを一年後の彼がどう表現してくれるのか。そんなことを考えている私は、すでに花祭りの磁力に引き寄せられてしまったのだろうか。


奥三河・東栄町の花祭り Vol.1【伝統芸能の継承者たち】

一ヶ月ほど前、奥三河に出掛けた。早朝から深夜までお祭りをぶっ通し取材する目的である。寒いのと眠いのが滅法弱いぐうたらな私に務まるかしら?と不安を抱えながら、前日のうちに向かう。道はだんだんと山の中に入り、現地に近づくと携帯電話が一気に圏外になった。外界と遮断されたような気持ちになって、いささか寂しい気持ちに・・・。
その祭りの会場である諏訪神社の前には、すでに地元の人が集まっていた。その何人かの方と会話を交わしたら、ついさっきまで抱いていた不安感はどこかに飛んでしまった。そこにいた人々の顔つきが、あまりにもはずかしそうで、あまりにも嬉しそうだったから。そんなキラキラ輝く目を見たのはいつぶりだろう?


奥三河の東栄町では、11月から3月まで、全部で11の地域で花祭りが行われる。700年以上に渡って継承される神事芸能で、この山里に脈々と伝承されてきた。私がお邪魔したのは、小林地区である。


鬼、人間、神の舞が終日続く

鬼、人間、神の舞が終日続く


鬼の舞

鬼の舞


稚児の舞

稚児の舞


朝の9時ごろから夜の11時ころまで、絶えることなくひたすら舞う。囃す。ひとつの舞が30分から長いと1時間。子供も大人も舞い続ける。予想以上にテンポの早い舞で、体力だけではなく気力が続くことに、思わず感心する。


地元の人は子供のころから花祭りを舞ってきているので、独特のリズム、笛や鈴の音がしみついているよう。前日の準備の段階では、すでにその音が体のどこかで鳴り始めているのだ。だから、あんなに輝いた目をしていたのだな。朝のうちは淡々と見えたが、夕方から夜にかけては、お酒の酔いも手伝ってか会場全体が高揚感に包まれていく。最後の舞を見てドキッとした。テンポが早くて舞い手の顔はよく見えないが、その後ろ姿が妙に色っぽいのである。この色気はなんなのか?背中の哀愁と漂う香りに惹きつけられて凝視した。なんと、舞い手3人は高校生とおぼしき少年だったのである。人の色気は涙の数で決まるはずなのに・・・、な〜んて歌詞のような言葉が浮かぶ。少年たちの舞は、まるで人生の悲哀を知っている人の踊りのように見えたのだ。そして、クライマックスを終えてみて、少年の舞に色気を感じた理由を理解することができた。


クライマックスの湯ばやし

クライマックスの湯ばやし

最後は真ん中の釜の湯を、舞子が周囲の人に振りかける。そのお湯を浴びると、一年間を健康に過ごせると言われているそうだ。


この祭りは、全国の神様をお呼出し、集っていただき、悪霊を祓って無病息災を願うもの。つまり、祭りの間中、神様はわたしたちの目の前に降りてきているのである。最後、クライマックスの湯ばやしを舞った少年たちの背中を借りて、神様は人生の悲哀を語ったのではないだろうか。それが私の目に色気として映ったのではないだろうか。神様も色気の素になる涙を、いっぱい流してくれているのかな。そんなことを考えている私を知ってか知らずか、汗とお湯でびっしょり濡れた一人の少年と目が合う。彼ははにかんで微笑んだ。なんとなく、神様と通じたような気がした。


※花祭りを取材した文章は、とあるクライアント様の広報誌にてお読みいただけます。カメラマン松本氏による写真がとても素晴らしいのでぜひご覧ください。ご希望の方は下記アドレスにメール送信してください。
Sassi-ko-ryu.Koe@chuden.co.jp
1.郵便番号・住所、2.氏名(ふりがなを添えて)、3.なぜ欲しいと思ったか、を記入の上、お申込くださいませ。


仮名手本忠臣蔵【伝統芸能の継承者たち】

錦秋の名古屋で、毎年のお楽しみは吉例顔見世。
今年は「忠臣蔵」が昼夜通し、歌舞伎ファン垂涎の豪華キャストとあって、随分前からあちこちで話題になっていた。


歌舞伎だけに用いられる定式幕。
舞台の上手から「茶汲み」(茶・黒・緑)と覚える。
この茶汲みの3色は、江戸時代の森田座で使われていた色で、
中村座では「黒・茶・白」(先月の平成中村座はこの定式幕だった)、
市村座では「黒・茶・緑」だったそうだ。現在の私たちが歌舞伎の定式幕として知っているのは、江戸時代の森田座の定式幕だったのだ。ちなみに、定式とは「決まったやり方、ルール」のことで、「一般通念」の常識とは意味が違う。歌舞伎の引き幕は、この色で作ることがルールになっている、ということなのだそう。今では、ルールのことを定式と表現する人が少ないのは、常識と定式、同じ発音でややこしくなってしまったのだろうか、と勝手に想像している。


今回の演目は日本人が大好きな忠臣蔵で、涙なくしては観ることができない舞台だった。水戸黄門や大岡越前と一緒で、話の流れは完全に頭に入っており、最後がどうなるのかも分かっているのに、役者さんたちの迫真の演技と、歌舞伎ならではのキメ台詞や立ち回りに、すっかり忠臣蔵の世界へとワープした一日となった。お昼は橋之助さんの塩治判官、夜は仁左衛門さんの勘平に福助さんのお軽、そして再び橋之助さんの平右衛門に、ワタクシ泣いてしまいました。鼻水ズルズルやっていると、お隣のお品の良いご婦人もズルズル。ズルズルは、広範囲に渡って感染しはじめた。前から4番目の席だったので、私の周りのズルズルは当然役者さんに丸聞こえ。するともらい泣き?をしてくださったのか、或いはご自分の演技の世界に入って自然に泣けたのか(当然こっちですよね)、橋之助さんもズルズルやりながら台詞をしゃべっているではありませんか。知らない人同士みんなで泣きながら、舞台を観るというのも、なんだか不思議な取り合わせだなぁ。袖すりあうも多少の縁というけど、この日の御園座は、ズルズルし合うも多少の縁、の会場風景だった。


最後に討ち入りを果たして幕が閉じ、すかっとした気分で帰路につき、帰り道にあるおなじみ和蕎楽にてまたまた酒宴。この日のお着物は、紺の縦縞紬に、秋らしくお月様とススキの帯。この着物、自分のお金ではじめて買った想い出の紬なのだ。お嫁入り道具やらお茶会用やらに(未だにお嫁にいけてないけどっっ)母が用意してくれた母好みから、私好みへと脱却した記念の誂えだったのだ。今、改めて見ると、ちょっと渋いかな〜。


名古屋平成中村座〜傾城反魂香・幡随長兵衛・元禄花見踊〜【伝統芸能の継承者たち】

名古屋平成中村座、楽日の夜の部。
夜空には7日目のお月様が浮かんでいた。
(左下の小さく光っているのがお月様です)


抱腹絶倒の現代的な演出が印象に残るお昼の部の法界坊と比べると、夜の部の方はいわゆる古典歌舞伎の味わいたっぷりに、義太夫、世話物、舞踊と演目が続いた(それでも串田演出は現代的に分かりやすさを信条としていたけど)。傾城反魂香では勘太郎の情熱と抑制の効いた演技に思わず涙し、幡随長兵衛では橋之助の侠気あふれる芝居に再び鼻をすすり、悲しい結末をひきずりながら最後の元禄花見踊で一転。華やかで美しい舞踊にうっとり。お昼の部同様、ラストは二ノ丸を借景にした演出で桜の花の風が会場に向かって一気に流れ、気分はすっかり元禄時代にタイムトリップ。
そして、一旦幕がひかれ、再び幕が開くと、中村勘三郎が法界坊の姿で登場し、なんと「かっぽれ」を踊りだした。白塗の息子たちによる元禄花見踊とは対照的なおどけた踊りに会場全体が拍手の渦になる。これは串田演出の筋書き通りなのか、勘三郎のアドリブなのか?うぅぅぅ、気になる。夜の部をご覧になった方、他の日がどうだったのか、教えていただけないでしょうか?
そして最後は、出演者全員が舞台上に登場し、一人一人の挨拶となった。楽日ならではの愉しいエンディングに、観客全員が鳴り止まぬ拍手を贈った。


これは左手親指。
右の指輪が左手の親指に当たっていたらしく、
拍手しすぎて、黒ずんで腫れ上がっていた!
相当コーフンしていたらしい(苦笑)。
傷む指をおさえ、おなじみ和蕎楽で、友人・多喜田保子と酒宴を楽しんだ。


名古屋平成中村座は、3年前には名古屋の同朋高校体育館で興行したし(あの時は狭いお座布団のみでおしりが痛かったなぁ〜!)、平成中村座として海外でも興行されているが、さすがに今回のようなお城の中ははじめてのことだったらしい。昨日のラストで中村勘三郎さんが発表していたが、なんと来年は大阪城での興行が決定したそうだ。徳川宗春の時代、幕府からは倹約令が出ていたにも関わらず、名古屋城下は文化特別行政区とばかりに、様々な芸能が催されていたと言う。平成中村座もお城の中の興行としてはじめて、名古屋城でスタートさせた。もしかすると全国のお城での開催に発展してくださらないかしら?と淡い期待を抱いている。


赤堀登紅さんの観月会【伝統芸能の継承者たち】

先週の土曜日は、徳川園の蘇山荘にて、日本舞踊家・赤堀登紅さんの観月会が催された。赤堀登紅さんとお知り合いになったのはまだ半年あまり。極めて短いお付き合いながら、私の大好きな着物や日本舞踊のお師匠さんということもあり、お話していると勉強になることばかりで、あっという間に親しくなってしまった。加えて、美味しいものに目がないこと、お互いの住まいが徒歩3分圏内という共通点もあり、いつも楽しいひとときをご一緒させていただいている。その彼女が舞踊を披露してくださる観月会は、とても楽しみにしていた。というのも、登紅さんの舞踊を見るのは、今回がはじめてだったのである。


お庭に舞台が設置され、日本庭園を借景にして、間近で鑑賞。
最初の舞踊は、「長唄[浅妻船]より、月待つの節」。
毎日お月様を眺める姿を描いた舞踊だった。


会場の様子から想像して、てっきり素踊りだと思っていたら、このようにきちんと床山さんによる鬘と舞踊化粧をほどこしたお姿で登場。このあたり、さすが、ですね。


そして、お衣装を替え、次の舞台は「長唄[鷺娘]抜粋」。
白無垢姿の鷺の化身となった娘の恋に焦がれる様子を描いたもので、歌舞伎の演目でも馴染み深い舞踊である。


登紅さんのふたつの舞踊を拝見し、すっきりと昇華されるような想いにとらわれた。観る者を自然に幽玄の世界へと誘ってくれる登紅さんの舞踊は、シナをつくることなく、小気味良い品の良さだったのだ。(舞踊に小気味良いなんて表現使っていいのかしら?)
美しい踊りだなと私が思う時の共通点は、見えぬ糸。まるで糸が人間の体を操っているかのように、腰が定まっているのに上体や下腿が自由自在に美しいラインを描いていく踊りだ。登紅さんの舞踊は、まさにこれであった。
もともと赤堀は、西川を源としていると聞いているが、西川の踊りを見慣れている私にとってはとても新鮮な印象だった。流派が違うと、舞踊の表現もこのように違ってくるのだなぁということを実感することができた。
今回は、日本舞踊にふれて欲しい、という登紅さんのご好意で、こうした栄に浴することができたのだ。(フツウ、プロの方に舞踊をお願いしたらお花代がしっかりかかるところなんです)



会場では、6年ぶりの「プリンス」との感激の再会も!
あ〜ん襟が片方寄っているし、パリパリ結城で肩が尖っている(泣)


素敵なオトナの女性、正恵さんとの出逢いもあり、
有意義で優雅で素敵な秋の宴であった。
この日のお着物は、結城紬の単衣に、更紗模様の帯。半襟はぎりぎりまで白と迷い、結局松葉色に。帯締め松葉色・帯揚げ薄紫・ギャルリももぐさで購入した下駄をセレクトです。