伝統芸能の継承者たち

昭和の旦那衆よ、よみがえれ!【伝統芸能の継承者たち】

今日も、前回の名古屋をどりの続き。
名古屋をどりのパンフレットの冒頭に、西川右近さんの挨拶文が載っている。「もう名古屋をどりを止めようかと考えている。だけど、戦後の大変な時に始めた先代の気持ちを考え、今の辛い時代をなんとか踊りで切り抜けていくことが我々に科された使命である」というようなことが書かれていた。
そう、日本舞踊を存続させるには現代はあまりにも難しい世の中になってしまったのだ。日本舞踊は、その昔、お嬢さんの習い事の定番だった。発表会ともなれば舞台衣装も必要になるので、そこそこお金がかかるが、日本舞踊を習うことによって立居振舞や行儀が身に付くので、多くの婦女子が舞踊を習い事にしていたらしい。
また、一般家庭の婦女子の習い事としてだけでなく、芸者さんたちのお稽古の場でもあった。芸者さんはお座敷でお客さんを接待するのに、舞踊や小唄を披露していたので、当然ながらお稽古には芸者さんが多く習いに来ていたのだ。

明治生まれの私の祖父は、昭和の時代の最後の旦那衆と呼ばれる世代で、日本舞踊をはじめ、小唄、長唄など日本の伝統芸能の世界を応援していた人だった。祖父の家にはいつも芸者さんが遊びに来ていたし、週末ともなれば、舞踊やら小唄の発表会に小さい私もよく連れられていったものである。


花柳界は、そうした旦那衆によって支えられていた。芸者さん及び置屋さんの収入源としてだけでなく、日本伝統の芸能の庇護者として旦那衆がいたのである。芸者さんとの色っぽい話だけが目的ではないのだ(もちろんそれだけを目当てにしていたエロバカ旦那もいたとは思うけど)。旦那衆は、芸事だけでなく、地域の困った問題や街おこしにも積極的に力を貸した。富んだ者は責任もって地域を守り育てるという気概が、昔の旦那衆にはあったのだ。旦那衆文化とは、欧州で言うところの「ノブレスオブリージュ」だと思う。
ところが昭和の終わりごろに、厳しい税制や明確な経費計上を義務づける流れで、旦那が使うお金に自由度がなくなってしまった。なんにでも領収書がいる時代、不明瞭な「お花代」は経費では落ちないのである。
こうして自然に旦那衆文化がなくなってから、日本の伝統芸能や地域の街おこしといった運動は、にわかに消えていったように思う。
最後の旦那衆世代を祖父に見てきたので、ちょっと言わせていただくと。
政権交代したことでもあるし、この際、旦那衆認定制度でも作って、税制をゆる〜くゆる〜くしてもらえませんかね〜?民主党さん。


名古屋をどり【伝統芸能の継承者たち】

先日、母と二人でお出掛けしたのは、「第62回西川流名古屋をどり」だった。今年は、名古屋をどりをスタートさせた西川鯉三郎さん生誕百年に当たる年だそうで、例年のような舞踊だけではなく、名古屋をどりの歴史紹介から舞台が始まった。鯉三郎さんの生い立ち、歌舞伎界での修行、結婚して名古屋に来てからの活躍、そして戦後の大変な時代に名古屋をどりをスタートさせた話などが語られる。鯉三郎さんは、多くの劇作家や芸能関係者との交流があった人で、高名な方との舞台共演を実現させた方でもある。中でも驚いたのは、美空ひばりと舞踊で共演していることである。美空ひばりが日本舞踊をやっていたことさえ知らなかった私は、白黒フィルムの映像が本当に美空ひばりなのかどうか、目をこすりながら見入っていた。最後にあの独特の声で礼を述べるシーンがあり、あぁ本当に美空ひばりだったんだ!と納得した次第。


一方の母が隣で少女のように喜んで観ていたのは「長唄 鷺娘」を踊った茂太郎さんだった。今年の2月ごろに名古屋能楽堂で催された「鯉女会」にも茂太郎さんは出演されており、その時の「紅葉狩」が素晴らしかったので、今回も事前から「鷺娘」をずいぶん楽しみにしていたのだ。確かに茂太郎さんの「鷺娘」は存在感のある舞台だった。

茂太郎さんの舞台が終わると、母は遠い目をして言った。
「ママが結婚する前に最後に出た踊りの会でね、島の千歳を踊ったんだけどね、その時に後見をやってくださったのが茂太郎さんだったの。途中で汗をふいてもらったんだよ。その頃からあの人かっこ良かった〜」と。

な、な、なぬ?
茂太郎さんの踊りにうっとりしてたんじゃなくて(もちろん踊りにもうっとりはしてたんだろうけど)、茂太郎さんそのものにうっとりしてたわけ?

どうやら、日本の伝統を守ろうとか、継承しようといった高尚な言い訳は、母には通用しないようだ。やっぱり、この母にしてこの私ありだな〜とつくづく実感したのだった。


名古屋平成中村座〜法界坊〜【伝統芸能の継承者たち】


素晴らしかった。最後は特に圧巻だった。歌舞伎では普通はしないスタンディングオベーションが自然にわき起こった。中村勘三郎、ブラヴォー!と。

勘三郎丈の見事なセリフまわしに、ジョークがたっぷり効いたアドリブ。脇を固めるのは、スッキリ二枚目の橋之助に個性派の笹野高史、独特の面持ちの片岡亀蔵、お品の良い御姫様役の中村扇雀。そして二人の息子、勘太郎と七之助。
小気味の良い江戸弁と早いテンポでストーリーはどんどん進んでいった。抱腹絶倒の連続で、一瞬たりとも舞台から目が離せない。
そしてなんといっても、最後のダイナミックな演出は見事であった。名古屋城二ノ丸を借景に仕掛けたアイデアに、かの徳川宗春もさぞ喜んでいることだろう。

名古屋平成中村座は、江戸時代の芝居小屋を再現して作られたものだ。会場の半分は座布団の上に座る席になっていたし、ろうそくに見立てた照明が用いられ、さながら江戸の中村座がそのまま名古屋城下で興行しているかのよう。そして最初から最後まで、昔の芝居演出の方法を極力取り入れて、電気などを使わずに人力で舞台を動かしている。こじんまりと作られた舞台は、観客との距離が近く、演ずる側も観る側も一体感をもって芝居を楽しむことができた。歌舞伎界の歴史に名を刻むであろう名古屋平成中村座に「参加」できたことがとても嬉しかった。

中村勘三郎の当たり役である「法界坊」を観たのははじめてのこと。私にとってこの名前は、子供の頃に叱られた記憶につながっている。お金と女に目がなく、どうしようもない生臭坊主の悪党は、乞食坊主と呼ばれるほど汚くだらしのない格好をしている。私が小さい頃、洋服を汚したり、ぞろぞろとスカートをひきずっていたりすると、必ず「そんな法界坊のような格好はやめてちょうだい!」と母から怒られたのだ。法界坊そのものを知らない私は、大人になるまでずっと、法界坊と言えばだらしなく汚い人の形容詞だと思い込んでいたのだ。今日、長年の疑問がやっと解けたような気がする。法界坊という言葉には忌み嫌うような印象を持っていたが、勘三郎が演じた「どこか憎めないキャラ」がその印象を塗り替えてくれたようだ。

次は楽日の夜の部。近松と黙阿弥という江戸のスーパーストーリーテラーの作品が現代名古屋に蘇るのだ。今から心待ちでならない。