LARMES Column

天領のかおり【伝統工芸の職人たち】

高山では、左官職人・挟土秀平さんが連れていってくださったとある割烹にて夜を迎えた。とりたてて特色のなさげな、なんでもないお店。けれど、目を凝らして見ると、アンティークのランプや磨き抜かれたカウンターになんともいえない佇まいがある。大将がお一人で切り盛りするお店で、次々と入るオーダーに実にてきぱきと仕事をこなし、お料理とお酒を仕上げていく。その手際の良さだけでなく、味も驚く程おいしいのである。特に書き立てるほどでもない、なんでもないお料理。たとえば飛騨のあげを炙ったものに、醤油と大根おろしをつけていただくもの。ところがこの飛騨のあげが格段に味わい深く、醤油がまたコクのあるおいしいお醤油なのだ。秀平さんは他のお客さんのオーダーが混んでいない頃合いを見計らって、大将にお酒や料理の注文をいれる。大将も我々の食べ方を見ながら、決してお箸が休むことのないよう気づかいつつ、料理を出してくださる。この抜群の間合いはなんなんだ!
さらに大将は、お客さんの会話にするりとうまく入り込む。シュールレアリズムという言葉を発した時、「福沢一郎」の話をし始めた。日本酒を吹き出してしまうかと思う程驚いた。音楽にしたってそうだ。あれだけ忙しそうに料理しているのに、お客さんの会話や雰囲気に合わせて選曲し、大将セレクトのMDでBGMを流しているのである。一体何者なんだろう、この大将は。


時計が九時半を過ぎると、お食事のお客さんがお帰りになり、飲むお客さんがぞろぞろと入ってくる。秀平さんによるとここは「学習割烹」だと言う。高山の知識人が集まるサロンなのだと。ここで語り合い学んだことが仕事に結びつき、悩みを解決し、表現者としての活力を得ているらしい。次々とのれんを分けて入ってくる人を見て「あ、この人は大関」「この人は横綱や」とコメントがつく。秀平さんは、このお店では前頭筆頭なのだそうだ。先生と呼ばれる人、建築家、職人、職業はさまざまである。ここで語られるのは、文学、美術、建築、音楽、映画、小説、郷土史と、無限大に会話がひろがってゆく。


ここはまるで60〜70年代のパリである。サルトルやボーヴォワールが語り明かしたサンジェルマンのカフェである。ワインの代わりに日本酒を飲み、チーズの代わりに飛騨の漬け物をかじる。それぞれの知識と欲望を交錯させながら、刺激を与え合う。酔いの心地よさとぴりぴりした知的好奇心の中で、これはパリ以外のどこかで味わったことのある感覚だと思った。


それは倉敷だ。確か倉敷を訪ねた時にも同じような感覚を覚えたのだ。一地方都市でありながら、とてつもない底力を土地の人の会話から感じ取ったのである。その街で生まれ育ったことに誇りを持っている。その街から全国に向けて文化を発信しているという自負がある。そしてそれが実際に多くの文化財を生み出してきている。そして、よくよく考えてみると、倉敷と高山、2つの街に共通しているのは、天領地だったということだ。


江戸時代の幕府直轄領のことを天領と呼んでいた(実際に天領という名がついたのは明治になってかららしい)。天領になるということは、つまりそこに莫大な富を生む産業があるということで、豊かな土地の証である。倉敷のとある老舗旅館の大女将が「倉敷は天領の地ですから、こういう考えの人がおおございますの」と言っていたのを思い出した。こういう考えとは、"富んだ者がその土地の人のために文化交流の空間を提供する"ことで、それは倉敷の場合、大原美術館のことを指していた。


先のコラムで紹介した挟土秀平さんの洋館も、いずれは大原美術館のように後年の人々を魅了してやまない空間になるだろう。物質的に富んでいるかどうかはともかくとして、少なくとも精神的にはかなり富んだ人が集う「学習割烹」。その末席にひとときでも加われて、この夜は満足して帰路についた。そうそう、帰る時の大将のおはからいにもびっくりした。前夜ほとんど寝ていなかった私は、日付が変わった頃に酔いと共に眠気が襲い、はからずも二度ほどあくびをかみ殺したのである。三度目のあくびを飲み込んだ時、秀平さんの目配りで大将がタクシーを呼んでくださった。細かなところに目線が行き届く「職人芸」には、とてもかないそうにない。


表現者【伝統工芸の職人たち】

先週末、春祭が終わったばかりの高山に出掛けた。
ワイドビューという名の通り、本当にワイドに広がった窓から眺める山の景色は素晴らしい。急な冷え込みで冬に逆戻りしたかのような気候が続き、花の蕾も人間もすっかり体を縮めていた頃で、今が冬なのか春なのかがよくわからなくなっていた。名古屋から高山に向かうと風景は季節を逆戻りする。桜がほとんど散ってしまった名古屋をあとに、電車から見える景色は、葉桜から散り際へ、そして下呂あたりで満開を迎える。映像を逆回しして見ているみたいで退屈することなく、2時間強の時間はあっという間に過ぎてしまった。


それにしてもやっぱり高山は名古屋に比べると寒い。雪こそさすがに降ってはいなかったものの、駅について電車から降りた瞬間、さむっっっ!と声に出してしまった。「こんなもん、寒くなんかねーよ」と頭っから否定してきたのは、左官職人の挟土秀平さん。5年ほど前に取材がきっかけで知り合いになった。NHKやTBSの番組、キリンのCMなどですっかり有名人で、今や左官という枠を超えたアーティストとして多くの話題を呼んでいる。その彼が私財と情熱と技術のすべてを注ぎ込んでいる「王国」を2年ぶりに見せていただいた。古い古い洋館に出逢った彼は、そこに昔の職人技術の素晴らしさを見た。ぼろぼろの洋館を買い取り、1700坪の土地を手に入れて、そこに復元移築するという壮大な計画を実行中なのである。(※その進行過程が某局で映像化されるそうなので、皆様楽しみになさってください。ここでは中途半端な写真紹介はやめておきます)


小雨が降る中、その洋館に向かった。ブルーシートに覆われたこの洋館の中は、挟土秀平の世界観で満ちていた。
オレがやっていることはサグラダファミリアだよ、と秀平さんが言うように、それはそれは物凄い世界だった。すべて秀平さんのデザインである。現代最高峰の大工による細工、飛騨春慶の建具、修復した春慶のドア、絶妙なバランスの色配合。すべて手で積んだあまりにきれいな石垣、手植えした山野草、まるで昔からそこにあったかのようななんでもない石の階段。そして左官技術の高さを感じる壁。一面の壁だけでこれだけ人を陶酔させる職人は、おそらく他にいないだろう。語っても語ってもその完璧なまでの美しさは表現できない。思わず言葉を失い、壁に手をあててしばらくじっとしていた。なぜだか泣きそうになった。


全国を飛び回ってあれだけ忙しい仕事をこなしながら、一人の表現者としてこんなにも次元の高い世界を創りだしていることに、心から敬意を表するし同時に自分がはずかしくもなった。実は再会した瞬間に秀平さんに言われたのである。「今、病んでるだろ?」と。自分では病んでいるなどとは思っていなかったので、その言葉にびっくりしたけれど、この洋館を見てからは秀平さんの言った意味がなんとなくわかったような気がした。豊かな自然の中で時に自然の厳しさを眼前に、土と水に向かっている秀平さんの心の声は、この日の春雨が大地を湿らしたように、しっとりとやさしく体に染みていった。


四十オンナ【えとせとら】

四十オンナ、という表現を聞いたら、どんな女性を想像されますか?

40代のワタクシ、最近、「やっぱり年なのね・・・とほほ」と感じることが多く、やたらめったら「四十オンナですから」と自虐ネタを含めて自分を表現している。このコラムでも頻繁に登場しているため、ある人から指摘を受けた。"四十オンナという表現はおやめください"と。

「年齢は実際に40代なのでしょうけど、それをコラムで敢えて広報する必要はありません。四十オンナという表現からは、所帯やつれした昔の主婦を想像させます。仕事に張り切っている、生き生きとした教養ある女性のイメージとはギャップがありすぎます」

・・・・・・・・・・・・・・と。

張り切るほどの仕事もなし(泣)、生き生きしているのは食事の時だけで、教養があるとはとても言いにくく・・・とまた自虐方向に走りがちなワタクシ。苦言を呈してくださったのは、20年前にクライアントだったTさん。現在は労務管理事務所を主宰していらっしゃり、私の20代(ぴっちぴちで可愛かった頃)をよくご存知なのである。


そこで、ふと思い出したことがあった。私が30歳になったころのこと。取引先から、社内報の少し拡大版「○○新聞」みたいなノリの情報誌が毎月送られてきていた。そこに、私と同年代の女性たちが綴る「三十路オンナの独り言」(不確かですが)というコーナーがあり、三十代を迎えた女性の悲哀、三十代だからこそわかることなどが書かれていた。そして、私はそのタイトルに不快感を持っていた。
三十路という表現自体、古くさいし、今や三十代の女性は輝いている人ばかりなのに、どうしてこんなマイナス方向の表現をするのかしら?同じ三十代を楽しく過ごしている女性が不快な思いをするのでは???と思い、一度その担当の方に「タイトル、少し変えてみては?」などと生意気なことを申し上げたことがある。数ヶ月したら、そのコーナーはなくなってしまった。なんだか余分なことを言ってしまったのでは?と自責したけどすでに遅し。生意気な自分を恥じていた。


今回、Tさんがお感じになったのは、この時の私の感覚と似ているのかもしれない。昔の使い古された表現で今の自分を卑下するのは女性として美しくない、と。
そして、見た目も中身も確実に年老いていくという現実に、四十オンナという表現を加えて使えば悲壮感がある。ふむ、確かにある。イマドキ風に言えば、痛いってやつですね。

というわけで、今日から、四十オンナ、封印いたします。これからどんな言葉で表現するかはまだ未定。Tさんからは「言葉のプロなんですから」とプレッシャーをかけられているので、考えなくっちゃ。

もう四十オンナとは言わない、と言って、結果、言っている、パラドックスなコラムになりました!


永沢君 さくらももこ【読書する贅沢】

日曜日夕方のテレビと言えば、我が家の場合は、17時30分「笑点」、18時30分「サザエさん」である。この2つは子供の頃からずっと好きで見続けているもの。2つの番組の間に国民的人気アニメ「ちびまる子ちゃん」を挟んでいる。ところが、四十オンナにとってのちびまる子ちゃんは、日曜夕方テレビ番組表では、ごくごく新参者なのである。笑点の大喜利で笑った後、ちびまる子ちゃんの放映中は、なんとなく気が抜けた感じで、うつらうつらしていて、サザエさんが始まるとテレビに釘付け、みたいな日曜日を過ごすことにとても小さいけれど確かなシアワセ感を持っている。


というわけで前置きがすっかり長くなってしまったけれど、ちびまる子ちゃんに登場するキャラに大した興味は持っていなかったにも関わらず、本屋さんでこの本を見かけた時に、手に取ってみたくなったのは、なぜなのか。

ちびまる子ちゃんを見たことがある人ならご存知の永沢君。本名、永沢君男。タマネギ頭で、人の顔を見ると毒ばかり吐いている小憎たらしい少年、この本は彼が主人公のマンガなのだ。本屋でこの本が気になったのは、多分、永沢君のシニカルな性格が私と似ていて、お互いに引き寄せたのではないかしら?

ちびまる子ちゃんたちは小学生から中学生となり、中学生になった永沢君を中心にして、彼の個性的な仲間の人間関係を、作者のさくらももこさんが描いた本である。ちなみにまる子ちゃんは登場しない。永沢君をはじめ、ちびまる子ちゃん本編にも確か登場している小杉や藤木といったおなじみ脇役、お嬢様の城ヶ崎さんや野口さんも登場している。

何が面白いって、永沢君と友人達の会話があまりにも絶妙なのだ。
友人が悩みを打ち明けた時、テストの点数が悪くて落ち込んでいる時、永沢君がかける言葉が、シニカルでブラックジョークの極みだ。

子供には読ませたくない、大人だけが味わうことのできる面白み。寝る前のナイトキャップにおすすめの一冊である。


春のお着楽会【着物だいすき】

先週のこと。広告業界及びその周辺業界のキモノ好きが、キモノを着てお食事と会話を徒然なるままに楽しむ、その名も「お着楽会」が催された。今回の幹事さんは、名古屋の重鎮スタイリスト、原結美さん。結美さんと言えば、黙っていればしっとり美しいマダム。でも実はとってもオトボケキャラが可愛らしいお姉様である。そのオトボケ結美さんが今回会場に選んだのが、イタリアンの「ラ・ベットラ」だった。予約がなかなかとれないことで有名で、今回の予約はなんと2ヶ月も前に入れたもの。春は桜の頃にやりましょう、というのがお約束だったので、開花予想など出る前から日にちを決めてお店の予約をとるなんて、よほどじゃないと桜とのタイミングがうまく合わない。と・こ・ろ・が、2ヶ月も前にセッティングしたにも関わらず、ばっちり桜が満開の下でのお着楽会開催となった。ブラヴォー、結美さん。


んなわけで、お食事会の前に私が向かったのは、ラシック一階のお花展。当日お昼頃に結美さんから携帯メールが入り、お花展でお茶のお手伝いをしているからお客さんでいらして〜、とのこと。お茶の先生の粋なお計らいで、急遽、結美さんのお点前に私がお客さま役でお茶をいただくことになった。ね、こうしてお点前されているところなんか、良家のマダムですよね。


こちらは、この日、結美さんがお召しになっていた「お羽織」でございます。黒い無地に花柄のとっても可愛い裏地をつけて、背にバラの刺繍紋!そしてなんと、この裏地はお洋服の生地なのだそう。バレンティノだったかな?お洋服用のシルクをキモノにアレンジしちゃうなんて、さっすがスタイリストさんです!これなら、着ている時は袖口からちらりと見える程度だけど、脱いだ時にはじめて可愛い裏地の全貌が見える。粋なオシャレですよね。脱いだらスゴいお羽織というわけ。


こちらがこの日のメンバー。皆さん、とってもオシャレさんで、着付けもお上手。ぐすぐすの着付けしか出来ない私はため息まじりに皆さんのおキモノ姿を拝見していた。ヘアメイクの村上由見子さん(左から2番目)は、撮影でモデルさんにキモノを着付けることもあって、いつもカンペキな仕上がりなのだ。毎回、おしゃべりについつい夢中になってしまって、肝心のキモノ話までたどり着かないのだけど、次回は是非、着付けのポイントやらキモノの知識やらを皆さんから教えていただきたいと思っている。あ〜、それにしても今回も泉1丁目に出没するガーベラちゃんの正体について、すっかり盛り上がってしまいましたね。
ちなみに次回はユカタの時期。昨年は屋形船でクルージングを楽しんだので、今回は何か趣向を凝らそうという話になっている。皆さん、何か良いアイデアございましたら、ご一報くださいませ。サイコーにヒートアップさせるには、ガーベラちゃんにユカタを着て参加してもらうことだと思うんだけど、由見子さん、どう思いますか???


重兵衛さん・・・【今日の地球】

この前の週末は実家の方のお祭りで、姉も帰ってきていたので私ものんびり実家帰りしていた。日曜日のお昼間、みたらし団子で口元をべたべたにしていたところに携帯メールが入った。ヴァンセットの秀代ママからだった。そこには信じられない文字が連なっていた。

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・・・・・・・・・・重兵衛さんが亡くなった、と・・・・・・・・・・。

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重兵衛とは、20年来お世話になっている名古屋の会席料理のお店の大将のことで、多くの料理人たちが敬愛してやまない料理人の中の料理人である。60代半ばでお若く、こんな突然の訃報を受けるなど誰もが信じられなかっただろう。私も呆然とするしかなかった。携帯電話を持ったまま、その場にへたりこんでしまった。
大きなご病気をされていたことも、最近体調が思うようにいかず、時々包丁をまな板の上に置いてじっとしているご様子も知っていたので、どうか養生してくださいね、とお顔を見るたびに言っていたのだが、まさか、こんなことになるとは。

月曜のお通夜と火曜のご葬儀では、重兵衛さんを失ってしまったということを現実のものにしたくなくて、会場に着いたものの、どうしても会場に入ることはできなかった。でも、現実は容赦なくやってきてしまう。時間通りにお通夜も葬儀も始まってしまったのだ。


重兵衛さんは、気骨あふれる料理人で、若干26歳で自分のお店を開き、以来39年の長きに渡り、独自性と創作性の高い素晴らしいお料理を数々作っていらっしゃった。日本料理の基本は昔ながらの技でしっかりとおさえながら、いつも斬新な発想で新しい料理を生み出してきた。お造りはそれぞれに温度、大きさと厚さ、隠し包丁による食感の違いをきちんと表現し、驚きの一皿を供されていたし(今では当たり前の技術だけど、当時はそこまでやっている町場の料理屋さんが数少なかった)。惜しげもなく良い素材をたっぷりと使っているので、思わずお客さんの方が原価を心配するということがあった。時にイタリアンやフレンチで使う調味料を日本料理で試したのも重兵衛さんがオピニオンリーダーだったのではないだろうか。
私が教えてもらったのは料理だけではなかった。まだうら若き20代の頃、生意気盛りの私は、重兵衛さんから多くの薫陶を受けたのである。


重兵衛さんの料理が食べたいけど一緒に行く人いないから、一人でカウンターに食べに行ってもいい?と電話すると、受話器の向こうから一喝された。「まりちゃん、女の子が一人で食事なんてするもんじゃない。一緒にお食事したいわ、と思えるようなボーイフレンドくらい何人も持ってなきゃオンナがすたるぞ」とあっさり断られてしまった。
「上品にごちそうしてもらえるオンナになりなさい。オトコがごちそうしてやりたいと思えるようなオンナになりなさい」
「女の子は一人でバーに行っちゃダメ。バーはオトコの場所なんだから、男性がエスコートしてくれるなら行きなさい。ましてホテルのバーは絶対に女性一人はダメ、ルール違反」
「いくらワインに詳しくても、お店に入ったら男性に任せなさい。オンナは飾り物としての美しさを保って、美味しい時間を過ごしなさい」
女性が女性らしく、男性が男性らしくあればこそ、食事の時間は楽しく記憶に残るものだということをとても丁寧に教えてくださった。


重兵衛さんのお宅にお邪魔して大酒を飲み重兵衛さんのベッドで眠りこけてしまったことや、次の日の営業で使う食材を勝手にお店から持って来て食べてしまったり(一階が店舗、二階がご自宅なので)、朝方まで飲んで大雪が降り帰るのに苦労したことや、お母さん(重兵衛さんの奥さんでお店では社長)以外の人を好きになってしまった内緒の話や、それがばれてお鍋で叩かれた話など、とにかく重兵衛さんの思い出は尽きない。


重兵衛さんの精神は、料理だけではなく、器の選び方からお店づくり、そしてお客さんとの距離感に至るまですべてにおいて一貫していた。お客さんに向かって"良い客になるためのマナーを教える"ことのできる料理人なんて、今はもういないのではないだろうか。そういえば、一度、こんなことがあった。
ワインブーム盛りの頃、お店にグランヴァンを持ち込むお客さんが増えていた。大らかな重兵衛さんは持ち込みOKと許容されていたが、ある時、3名でいらっしゃったお客さんがいきなりカウンターの上にワインを5本並べたのである。「テイスティングしたいから、グラスそれぞれ5脚ください」と。みなまで言い終わる前に、重兵衛さんは包丁を突き立てて怒った。「持ち込むなら持ち込むって予約の時に言え!お店への気配りで、一本ぐらいはお店のワインを飲め!そのお店で提供していないワインなら許す。お店にあるワインならお店の物を飲め!ワイングラスは一人一脚!持ち込んだらその空き瓶は自分で持って帰れ!それができないヤツはワイン持ち込み禁止!」ワインラバーに嫌気がさしていた私には、溜飲が下がる言葉だった。拍手を贈りたいくらいだった。その後、その3名は体を半分くらいに小さくして、無言で料理を食べていたっけ。さぞ苦しかったでしょうね〜。これ以外にも、エピソードを語り出したら止まらない。


2月生まれの重兵衛さんに今年もお花を贈り、そのお礼のお電話をいただいて会話したのが最後になってしまった。前回お店にうかがった時に、私が大好きな古九谷の器でお造りを出してくださったので、「重兵衛さんが死んだら、この器ちょうだい!」と言ったら「そんなに早く殺すなよ」と笑って言ってたのに。今年の夏は一緒に鮎を食べに行こうと約束していたのに。
重兵衛さん、あなたのような料理人はもう二度と現れないと思います。
日本中が桜で覆われるこの季節、桜が最も美しい散り際に、桜と共に散っていくなんて、重兵衛さん、最後の最後までかっこ良すぎるよ!
泣き過ぎて腫れてしまったまぶたに、濃いめのブラウンのシャドーを塗って、今日、私は懸命に涙をこらえて仕事に向かった。


海のオンナ、海のオトコ【今日の地球】


まだ極寒と言ってもいいほどの気温に震える2月初旬、海辺の風景を取材するために、賢島〜志摩方面に出掛けた。レインブーツを履いて海に入り海女さんと一緒に船に乗ると、このコラムでも紹介したあの頃のことである。ディレクターS氏とカメラマンM氏と共に賢島のホテルに泊まり、夜明け前の5時にロビーに集合して、すぐに浜辺に降りたら、この風景と出逢った。夜と朝の間、これから一日が始まろうとする光の眩しさ、絵葉書のような美しさに、息をのんで立ちつくしてしまった。


太陽が昇る光景を左手に見ていて、ふと右を見ると、空にはこんなきれいなお月様が浮かんでいるではありませんか!映像位置的にもまさに夜と朝の間に立っている私。カメラマンのM氏は、刻々と変わりゆく夜明けの色彩を追って無言でシャッターをきり続けている。一歩でも足を踏み出せば、あっという間に夜が明けてしまいそうな気がして、寒さに震えながらじっと空気が流れて行くのを感じていた。


日が昇った後は、漁業組合の市場の取材、そして楽しみにしていた海女さん取材である。海女小屋に入っていくなり浴びせられた言葉は「姉ちゃん、今日これから一緒に海に潜るん?」とまどう私に隣のおばちゃんが大笑い。平均年齢70歳を軽く超えている海女さんたちは、とにかく明るくて、めちゃめちゃ元気だ。まるで少女のようにけらけらと笑う。屈託のない笑顔は、人生の苦労と表裏一体なんだろうなぁと思いながら、私も一緒におかきを食べ、男性の悪口を言い合い、共にけらけらと笑った。腹筋をたくさん使って笑ったからか、とっても気持ち良かった。海女さんたちがお着替えされた時にちらりと見えた、真っ白でつややかな肌が忘れられない。

※海辺の風景を取材した文章は、とあるクライアント様の広報誌にてお読みいただけます。いつもながら写真がとても素晴らしいのでぜひご覧ください。ご希望の方は下記アドレスにメール送信してください。
Sassi-ko-ryu.Koe@chuden.co.jp
1.郵便番号・住所、2.氏名(ふりがなを添えて)、3.なぜ欲しいと思ったか、を記入の上、お申込くださいませ。



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2月の海辺でのことを何故今頃コラムにするのかというと・・・海のオンナの強さと海のオトコの清々しさを、この数日何度も想ったからである。

志摩に住む友人のご主人・海のオトコが天に召された。
3月30日午前10時43分、大潮だったそうだ。

友人のSちゃんは、癌を患ったご主人と共に過ごす闘病生活をブログに記しながら、ご主人Rちゃんに対する深い愛と献身的なまでの看病に精一杯のことをしていた。その愛に満ちたブログからは、愛娘とご主人との大切な時間をていねいに過ごしていることがよくわかった。愛娘には、人生の可笑しみや悲しみ、そして愛を教え、時に諭し、親と子というよりも同じ人間同士、共に成長を楽しんでいるかのように見えた。
ご主人のRちゃんは志摩で生まれ育ち、ヨットが大好きで船を造る仕事をしていて、海のオトコそのものだった。結婚前から話だけはたくさん聞いていたのだが、今度は会わせてねとは口約束ばかりで、結局、私はご主人には会えていない。


ここのところ、Sちゃんのブログがかなり逼迫した内容だったので、数日ブログ更新がないとドキドキしてしまう。昨日、4月1日の未明の更新で、ご主人が亡くなったことを書いていた。これはエイプリルフールだろうと思った。きっとジョークなんだ、と。ブログが新しく更新されるまでは信じないでおこう、と。でも、やはりそれはエイプリルフールなんかじゃなかった。


4月1日の夜、私は会えなかったご主人Rちゃんと乾杯したくて、お酒を飲むために出掛けることにした。ご近所の割烹「ふじ原」で、はじめて"一人ふじ原"を体験。心の中で、友人のSちゃんと、そのご主人Rちゃんと一緒に日本酒を乾杯。Sちゃんがブログで書いていたように「今夜はたくさん飲もう!」とRちゃんに語りかけ、ひと口飲んで天を仰いだら、お酒が喉をゆっくりと流れていった。あ、美味しい。生きてるってこういうことなんだなと思った。
Sちゃん、今度Rちゃんの話しながら一緒にお酒を飲みましょう。何度かメールを送ったのだけど、なぜだか戻ってきてしまって。不義理を続けていてごめんなさい。3月30日はとてもきれいな満月でしたね。今頃、Rちゃんは、私が見た志摩のきれいな海の上でお星様になっているのでしょうね。お星様になった海のオトコが、海のオンナであるSちゃんたちをずっと見守ってくださると思います。


坂の上の雲 司馬遼太郎【読書する贅沢】


約30年ぶりに読み始めた、坂の上の雲。本屋さんで本棚から八巻の文庫本を片手で一気に抜くという作業は、手がデカイと認識している私にとってとても気分の良いものであった。この小説をもう一度読もうと思ったキッカケは、もっちろん松山への旅である。というわけで、松山"旅の手帖"第3弾。


「坂の上の雲」は、中学生の時に社会の先生から勧められて読んだことがあって、その時は特に感慨もなく、なんとなく読み進んでしまったという印象しか残っていない。今回は、NHKのドラマを観ていたこと、そして松山で「坂の上の雲ミュージアム」を訪れたことが、再読への想いを駆り立ててしまったらしい。安藤忠雄さん設計による「坂の上の雲ミュージアム」は、建物そのものの面白さはもちろんだけど、文字中毒の私にとっては"ここに住めたらいいのに"と思うほど魅力的な場所だった。小説の文章に沿って、歴史と地域の文化と秋山兄弟及び正岡子規の一生がわかりやすく展示されているのだから、文字中毒者なら、ここに10日ほど滞在してじっくり廻りたい!と思うはずである。「坂の上の雲」がお好きな方には、是非来訪いただきたいミュージアムである。さりとて私は同行者もいたので、あまり夢中になりすぎるのも社会通念上よろしくなく、適度に切り上げてミュージアムを後にし、さくさくと道後温泉へと向かった。


道後温泉と言えば、木造三階建のこの景色ですよね〜。
温泉とは言っても、香りがほとんどないさらさら系のお湯なので、
温泉街にありがちな硫黄の匂いに閉口することもなく、
ひたすらミーハーに観光を楽しめばよい。



夏目漱石の「坊ちゃんの部屋」のお隣のお部屋をオーダーして、しばし坊ちゃん気分を味わっていたら(写真左)、意外に美味しい坊ちゃん団子なるものをお茶受けに出してくださり(写真中央)、道後温泉のシンボルマークでもある温泉の湧き出るデザインがあちこちに使われているのを見つけて(写真右)、なんだか良い気分になっていた。温泉では、お隣にイギリス人と思われるうら若き女性が一緒になり、温泉のあれこれについて、かなり下手っぴな英語で会話しつつも、うら若きイギリス人女性と素肌をすり合うも多少の縁とばかりにすり寄っている自分のオヤジ度に嫌気がさし、すごすごと坊ちゃんのお隣のお部屋に戻って、文学にふけていた頃、窓の外から完全に酔っぱらったオヤジたちの嬌声が聞こえてきて、あ〜あ私もあのオヤジ殿と同じだな〜と感慨にふけった初春の松山であった。


でも正直なところを申せば、坂の上の雲のドラマを見ることにしたのは、結局はもっくんが好きだというにほかならず、さらに松山市内の随所に貼られている「坂の上の雲」のポスターには当然ながらもっくんがかっこ良く映っているわけで、それを見るたびにうっとりしつつ同行者をあきれさせ、あげくの果てにはそのポスターのもっくん部分を写メして待受画面に設定するなどという、広告屋としてはやっていはいけないことに夢中になった。


毎晩読み進んでいる小説にしたって、秋山真之はイコールもっくんであって、他の誰でもないわけで、結局のところ、人間の欲はこんな単純なところから生まれているのだなと思う今日このごろである。だってかっこいいんですもの、もっくん。最近第三子ご誕生とのことで、そのご子息の名が「玄兎 げんと」というらしい。これは古語でお月様のことを指しているらしく、お月様好きな私はいっぺんに心臓を打ち抜かれた気持ちになってしまった。こんなことにうっとりしている四十オンナですが、みなさま、許してくださいますかっっっ???


海の力【今日の地球】

海の上にぷかぷかと浮かんできた。と言っても、もちろん冬の海の上ではなく、海水を使ったアクアトニックプールに浮かんだのである。お仕事先のS藤さんが、蒲郡のテルムマランの体験チケットをくださったのだ。そう、あのラグーナのすぐ近くにあるタラソテラピーの施設のことだ。タラソテラピーとは、海洋療法のこと。海の力を借りて、疲れをとったり運動をしたりして、体を癒し、海からパワーをもらうことである。


テルムマランに到着してすぐにヘルシーなランチをいただく。これが前菜。バイキングで豊富なラインナップの中から好きに選ぶ。この後、メインをいただくので割とすごい量になるけど、ヘルシーに仕上げてあり、おなかもたれは全くなかった。カロリーコントロールしてあるので、気楽にいただけるのが女性には嬉しいですね。もちろんデザート付きだ。


この後、水着でアクアトニックプールで好きなだけ歩いたり座って海水の流れを感じたりして遊ぶ。プールといっても、三河湾から海水がひかれているので、海に浮かんでいるのと同じ効果が得られるのだ。全面窓からはラグーナやヨットハーバーが見えて気持ちイイ〜。首筋の打たれ滝みたいなのがあったり、足裏にジェットが当たるようになってたり、全身のツボにピンポイントで海水ジェットがびゅんびゅんと響く。マッサージマニアの私にはドストライクな所だということがわかってきた。


そして極めつけは、この後のピシーナリラクゼーションだった。トレーナーの指導のもと、海水に全身を浮かべて眠るのである。最初は耳に水が入っちゃうじゃん(これは耳栓でカバー)とか、眠れるわけないじゃん、などと思っていたのに、トレーナーの方に身を任せて言われるがままにしていたら、ホントに海水に浮かんだまま大の字で眠ってしまったのである。ハッキリ言って、枕が変わろうがベッドが変わろうが、どんな所でも眠れるタチではあるけど、まさか水の上で眠ることになるとは思わなかった。そして耳栓の奥から聞こえてくる水の流れやざわめきがものすごく心地よいのである。人間は海から生まれたとか、海は母親の胎内に似ているなどと言われるのがよぉ〜くわかった。


メニューの最後に、アルゴパックという海藻パックをマッパになって全身にほどこしてもらった。海藻クリームみたいなのをたっぷりと塗られ、ビニールで体を覆われて温めてもらう。まるで自分が昆布蒸しされているような気分になった。この時の私の体をこのままローストしたら、さぞ美味しい昆布締め風の焼豚ができたことと思う(笑)。


さらにこの後も、もう一度アクアトニックプール内のチェアに寝そべり、西陽のさす海を眺めながらのんびりしていたら、お隣に同じく寝そべっている紳士が、なにやら私のことを凝視している様子。
すわっプールサイドのナンパかっ!結構古い手だぞ!と思いきや。昆布締めパックの後、水着を着直した時に胸元のファスナーを上げきらないままプールに入ってしまったらしく、さらに中途半端なファスナーに海水ジェットが入り込み、私の胸元は半チチ状態になっていたのだ!うわ〜やっちゃった〜。仕方ないので素知らぬふりでプールを退去し、そそくさと着替えて帰路についた。
それにしても、海の力ってホントにすごいんですね〜。普通のプールではあんな体感できないですもの。名古屋から約1時間のテルムマラン。まる一日をゆったり過ごすにはとっても良い所でございます。皆さん是非ご体験を。S藤さん、またチケットよろしくお願いいたしますっ!!!


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そして土曜日の今夜は、数回前のコラムでご紹介した、友人の井戸えりちゃんが衣装を担当しているお芝居「さくら城に沈む月」を見て来た。歌うように唱えるお経の"声明"とコラボしながら、お寺の本堂という特殊な空間に舞台を作り、桜を小道具に素敵なお芝居が繰り広げられた。もちろん井戸えりちゃんの衣装は創意と工夫に満ちたもので、お寺の本堂という舞台と時代考証をとてもうまくミックスさせて仕上がっていたと思う。明日日曜の夜は最後の公演になるので、お時間のある方は是非ご覧になってください。お寺で見るお芝居、新鮮なのにどこか懐かしくて、いいですよ!

「さくら城に沈む月」 劇工房MAKOプロデュース
3月28日曜18時30分
入場料/当日2800円
お問い合わせ/劇工房MAKO企画 09017520168(浜島)
www.md.ccnw.ne.jp/makokikaku/
会場・浄土宗 宝亀山 相応寺本堂


お寺の本堂の前には
五部咲きの桜の樹がライトアップされていた。
きっっれ〜い。
今年初の夜桜を思わず写メっちゃいました。


繁栄の軌跡〜愛媛県内子町【暮らしの発見】

松山"旅の手帖"第2弾デス。松山から車で国道を1時間ほど走ると、のどかな山里に辿り着く。江戸後期から明治にかけて、木蝋の生産で栄えた内子という町である。その昔は和蝋燭で、後に化粧品の原料となった木蝋で町全体が木蝋長者になり、当時最高の技術と良質な材料で堅牢かつ華麗な家々が建築された。それが、今でもそのまま残されていて、風情ある街並に年間30万人の観光客が訪れると言う。その数字だけを聞くと俗化されたお土産品だらけの観光地を思い浮かべるが、内子町が他の観光地と一線を画すのは、その街並に今も人々が住み続けていることである。その証拠に、八日市護国の街並というメインストリート(?)を歩くと、おばちゃん同士の立ち話、子供たちの嬌声、店番をしているのか居眠りしているのかはっきりしないおじいちゃん・・・といった生活の場面に何度も遭遇するのだ。そして私たち外者にとっては、この街はまるで博物館である。漆喰で塗り込められた壁には昔の左官職人の、繊細なラインを刻む格子戸には大工さんの、荘厳な彫刻には彫り師の、技術力の高さをため息まじりに眺めて歩いた。さっきすれ違ったおばちゃんやおじいちゃんは、この古い日本の住宅を大切に守り継いで生きてきたんだなぁ。日々の暮らしを営みながら、こうした古いものを次の世代へと繋げてくれている。



それでもって町の自慢は、この「内子座」である。大正天皇即位記念で建てられた劇場で、外観も中もすべては木造。地場の事業で成功した人々が、歌舞伎や文楽をここで楽しんだのだという。昭和になって映画が栄華を極めた(シャレじゃござんせんよ)時代には、一時的に映画館になったこともあったという話から、映画「ニューシネマパラダイス」を思い出してしまった。時代が変わっても、内子座は人々の誇りを象徴する存在なのだろうなと思う。それにしても、こんな山の中の小さな町に劇場作って歌舞伎を呼んじゃうなんて、本当にこの町の繁栄はすごいものだったんでしょうね〜。



そして、この小さな山里をわざわざ私が訪ねたのは、この橋を見るためであった。じゃじゃ〜ん、内子町に2つだけある屋根付き橋の一つ、「田丸橋」。昔は生活道と物産の倉庫を兼ねていたそうで、屋根は杉皮ぶきである。実はこの橋、NHKのドラマ「坂の上の雲」に何度も登場しているのだ。「あのドラマに出て来た屋根付き橋、今でも松山にあるのかなぁ、あるのなら是非一度見てみたいものだわ」とつぶやくと、N○KのO本女史が笑いながらこう言った。「残ってるわけないじゃないですかマリコさん!あのドラマ、すんごいお金かかってるんですよ。きっとドラマのために作ったんじゃないですか?」そっか〜残ってないのか、残念と思いつつも念のためネットで調べると、松山から少し離れた町に現存している橋でロケをしたという情報が!やった〜!
O本女史!ちゃんと残ってましたよ、屋根付き橋!!!



こちらがもう一つの屋根付き橋「弓削神社橋」。弓削神社の参道になっていて、この橋を渡るとその先に神社があり、町の人々は毎日のように参拝しているという。しだれ桜の名所がすぐそばにあるのでご存知の方も多いだろう。神社の参道という性格上、前述の田丸橋とは趣が異なり、ゆるい弧を描く、それは美しい橋だった。田丸橋は子供が掛けっこしながら走って似合う橋だとすれば、弓削神社橋の方は楚々とした着物姿の女性が物思いにふけながら歩くのが似合う橋といった感じ。あ、また視線がオヤジになってしまった(苦笑)。



左上は、町で見つけた狭くて細くて、時代を感じる路地。右上はお昼ご飯をいただいたお店の軒先で出逢った猫ちゃん。とっても人なつこい子で、いきなり膝の上に乗ってすりすりしてきたので、しばし猫語で会話して遊んでもらった。
内子町を訪ねた日は肌寒く「菜種梅雨」が降っていた。文字通り、菜の花畑に降る小雨に濡れながら、この2つの橋に出逢えた感動で、なぜだか少し嬉し涙が流れてしまった。しっとり美しい風景は四十オンナをも詩人にするようでございます。