今日の地球

重兵衛さん・・・【今日の地球】

この前の週末は実家の方のお祭りで、姉も帰ってきていたので私ものんびり実家帰りしていた。日曜日のお昼間、みたらし団子で口元をべたべたにしていたところに携帯メールが入った。ヴァンセットの秀代ママからだった。そこには信じられない文字が連なっていた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

・・・・・・・・・・重兵衛さんが亡くなった、と・・・・・・・・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

重兵衛とは、20年来お世話になっている名古屋の会席料理のお店の大将のことで、多くの料理人たちが敬愛してやまない料理人の中の料理人である。60代半ばでお若く、こんな突然の訃報を受けるなど誰もが信じられなかっただろう。私も呆然とするしかなかった。携帯電話を持ったまま、その場にへたりこんでしまった。
大きなご病気をされていたことも、最近体調が思うようにいかず、時々包丁をまな板の上に置いてじっとしているご様子も知っていたので、どうか養生してくださいね、とお顔を見るたびに言っていたのだが、まさか、こんなことになるとは。

月曜のお通夜と火曜のご葬儀では、重兵衛さんを失ってしまったということを現実のものにしたくなくて、会場に着いたものの、どうしても会場に入ることはできなかった。でも、現実は容赦なくやってきてしまう。時間通りにお通夜も葬儀も始まってしまったのだ。


重兵衛さんは、気骨あふれる料理人で、若干26歳で自分のお店を開き、以来39年の長きに渡り、独自性と創作性の高い素晴らしいお料理を数々作っていらっしゃった。日本料理の基本は昔ながらの技でしっかりとおさえながら、いつも斬新な発想で新しい料理を生み出してきた。お造りはそれぞれに温度、大きさと厚さ、隠し包丁による食感の違いをきちんと表現し、驚きの一皿を供されていたし(今では当たり前の技術だけど、当時はそこまでやっている町場の料理屋さんが数少なかった)。惜しげもなく良い素材をたっぷりと使っているので、思わずお客さんの方が原価を心配するということがあった。時にイタリアンやフレンチで使う調味料を日本料理で試したのも重兵衛さんがオピニオンリーダーだったのではないだろうか。
私が教えてもらったのは料理だけではなかった。まだうら若き20代の頃、生意気盛りの私は、重兵衛さんから多くの薫陶を受けたのである。


重兵衛さんの料理が食べたいけど一緒に行く人いないから、一人でカウンターに食べに行ってもいい?と電話すると、受話器の向こうから一喝された。「まりちゃん、女の子が一人で食事なんてするもんじゃない。一緒にお食事したいわ、と思えるようなボーイフレンドくらい何人も持ってなきゃオンナがすたるぞ」とあっさり断られてしまった。
「上品にごちそうしてもらえるオンナになりなさい。オトコがごちそうしてやりたいと思えるようなオンナになりなさい」
「女の子は一人でバーに行っちゃダメ。バーはオトコの場所なんだから、男性がエスコートしてくれるなら行きなさい。ましてホテルのバーは絶対に女性一人はダメ、ルール違反」
「いくらワインに詳しくても、お店に入ったら男性に任せなさい。オンナは飾り物としての美しさを保って、美味しい時間を過ごしなさい」
女性が女性らしく、男性が男性らしくあればこそ、食事の時間は楽しく記憶に残るものだということをとても丁寧に教えてくださった。


重兵衛さんのお宅にお邪魔して大酒を飲み重兵衛さんのベッドで眠りこけてしまったことや、次の日の営業で使う食材を勝手にお店から持って来て食べてしまったり(一階が店舗、二階がご自宅なので)、朝方まで飲んで大雪が降り帰るのに苦労したことや、お母さん(重兵衛さんの奥さんでお店では社長)以外の人を好きになってしまった内緒の話や、それがばれてお鍋で叩かれた話など、とにかく重兵衛さんの思い出は尽きない。


重兵衛さんの精神は、料理だけではなく、器の選び方からお店づくり、そしてお客さんとの距離感に至るまですべてにおいて一貫していた。お客さんに向かって"良い客になるためのマナーを教える"ことのできる料理人なんて、今はもういないのではないだろうか。そういえば、一度、こんなことがあった。
ワインブーム盛りの頃、お店にグランヴァンを持ち込むお客さんが増えていた。大らかな重兵衛さんは持ち込みOKと許容されていたが、ある時、3名でいらっしゃったお客さんがいきなりカウンターの上にワインを5本並べたのである。「テイスティングしたいから、グラスそれぞれ5脚ください」と。みなまで言い終わる前に、重兵衛さんは包丁を突き立てて怒った。「持ち込むなら持ち込むって予約の時に言え!お店への気配りで、一本ぐらいはお店のワインを飲め!そのお店で提供していないワインなら許す。お店にあるワインならお店の物を飲め!ワイングラスは一人一脚!持ち込んだらその空き瓶は自分で持って帰れ!それができないヤツはワイン持ち込み禁止!」ワインラバーに嫌気がさしていた私には、溜飲が下がる言葉だった。拍手を贈りたいくらいだった。その後、その3名は体を半分くらいに小さくして、無言で料理を食べていたっけ。さぞ苦しかったでしょうね〜。これ以外にも、エピソードを語り出したら止まらない。


2月生まれの重兵衛さんに今年もお花を贈り、そのお礼のお電話をいただいて会話したのが最後になってしまった。前回お店にうかがった時に、私が大好きな古九谷の器でお造りを出してくださったので、「重兵衛さんが死んだら、この器ちょうだい!」と言ったら「そんなに早く殺すなよ」と笑って言ってたのに。今年の夏は一緒に鮎を食べに行こうと約束していたのに。
重兵衛さん、あなたのような料理人はもう二度と現れないと思います。
日本中が桜で覆われるこの季節、桜が最も美しい散り際に、桜と共に散っていくなんて、重兵衛さん、最後の最後までかっこ良すぎるよ!
泣き過ぎて腫れてしまったまぶたに、濃いめのブラウンのシャドーを塗って、今日、私は懸命に涙をこらえて仕事に向かった。