えとせとら

極上の孤独【えとせとら】

大人に囲まれて育ち、大人の世界のすぐ隣で暮らすように成長した私は、小さい時から一人で過ごすことが多かった。どちらかといえば内気な性格の私を、母はあろうことか1年保育で幼稚園に行かせた。周りの園児たちは2年目ですでに仲良しグループが出来上がっていたため、私にはアウェイ感が半端なく、入園式では号泣して嫌がり、先生たちをかなり困らせたのだそうだ。小学校に上がってからも友人を作ることが苦手なままで、気がつけばいつも一人で行動していた。
私が小学校から帰宅する時間は、年の離れた姉と父はまだ帰っておらず、母はほとんどキッチンで料理をしていた。母からは宿題をやりなさいと言われながら、私が向かうのは勉強部屋ではなく応接間だった。一つには母がいるキッチンから遠いので干渉されなくて済むということと、もう一つには、そこにステレオがあったからである。父が買ったと思しきレコードを触ると怒られるので、私は子供用のソノシートのプレイヤーで音楽を聴くのが大好きだった。一番好んでかけていたのは、クライスラーの「愛の哀しみ」で、確か緑色のソノシートを何度も擦り切れるほど聴いたのである。もちろん、愛のことも、哀しみのことも、全く理解していなかったが。

さて、先日。仕事でインタビューした世界的ピアニスト・竹澤恭子さんのリサイタルにお邪魔した時のこと。竹澤さんはクライスラーの「愛の哀しみ」を演奏されたのだが、久しぶりに聴くこの曲に、なぜだか涙腺が反応して堪えきれなくなってしまった。ちょっと湿っぽい匂いのする応接間の、出窓に置いてあったソノシートの風景を思い出したからだろうか。あの応接間には、私の孤独が詰まっていたのである。
ここでいう孤独には、寂しさからくる悲壮感はまったくない。たった一人の空間で、邪魔されることなく好きなことを考えて過ごす豊かさを指している。孤独を味わい尽くす習性は、大人になった今でも続いており、多くの友人たちとにぎやかな時間を共有することはもちろん人生の楽しみの一つではあるが、一方で、友人たちと別れてから一人になってその会話を思い出すことも至上の喜びなのである。わかりやすい例を挙げると、自宅に友人を招いてホームパーティを催す時など、一人で準備をしている段階がもっともテンションが上がる。その日のテーマと主役を設定して、どんなメニューにするか、テーブルセッティングは何をモチーフにするか、何度もラフスケッチを描きながら妄想してさんざん楽しんだ後、本番がやってくる。当日は友人たちといっぱいおしゃべりし、最高の時間を過ごす。そして友人が帰った後、また一人になって後片付けをするのが、これまた豊かな孤独の極みなのである。つまり、私がホームパーティを開催するのは、孤独を味わいたいから、というパラドックスが成立するのだ。

孤独論には一家言あるつもりなので、下重暁子さんの「極上の孤独」がベストセラーになっていると聞き、早々に拝読したのだが。正直に申すと、私にとっての驚くような新しい論はそこには書かれていなかった。代わりに、私はすでに孤独を体現しているのだと確信することができたのである。それにしても、極上の孤独とはいい言葉だ。おそらくこれからの私にとって「極上の孤独」という言葉は人生の標語になるだろうと思う。
どなたか孤独論をお持ちの方、よろしかったら、孤独論を話しませんか?と書いてから、孤独論は一人では論を闘わせることはできない、というパラドックスをまた発見してしまった。