えとせとら

同級生の無条件シンパシーVol.2【えとせとら】

高校の同窓会があった。と言っても、クラスや学校のオフィシャルな同窓会ではなく、お互いに連絡がつく人同士が声を掛け合って集まった、総勢14名の小さな同窓会だった。ほとんどが高校を卒業して以来の再会で、結婚して名字が変わっていたり、住む場所が変わっていたり、ちょっぴり体型が変わっていたりしたけれど、30分も話していたら、20数年前の高校生にすっかり戻っていた。人間って変わらないもんですね〜。アイドルだった女の子は、やっぱり主婦になっても同級生の間ではいつまでもアイドルで、人を笑わせ惹きつけていた男の子は40過ぎても人気者だ。


驚いたのは、同級生たちが立派になっていたこと。我々マスコミ系で言えば、三の丸の新聞社やら大手代理店やら。他にも家業を継いでいる人、会社経営者、銀行マン、そうそう政治家になった人もいた。女性の方は、私以外皆結婚していて、多分、シアワセな家庭生活を営んでいる。仕事の話をしていれば視点がぶれていなくて頼もしい限りだし、子供の話になれば良いお父さんやお母さんの顔になる。なんだか極楽トンボな生活しているのは私だけみたいだ。やれやれ。


それでも、以前このコラムに書いた「同級生の無条件シンパシー」は、この夜も私の中で炸裂し、普段のビジネス環境とはまったく異質の心地良さを感じつつ、気分良くお酒を飲むことができた。10代後半の3年間を同じ校舎で過ごしたというだけの関係なのに、あの安心感はなんなのでしょうね。皆と時間を過ごすほどに懐かしさが増し、深夜帰宅してからしばらくは頭の中が卒業アルバムでいっぱいになり、なかなか眠れなかった。


思い返してみると、高校を卒業してすぐに地元を離れてしまったせいもあり、連絡を取り合っている友人は数少ない。誤解を恐れずに言えば、同級生との邂逅を、心のどこかで懐古趣味だと自分勝手に捉えていたのではないだろうか。大人になった自分を見せるのが気恥ずかしいような、そんな気持ち。それが40を過ぎて、自然に垣根が取っ払われたのはなぜだろう。
人は、生きてきた時間の分だけ想い出があって、年を重ねるほどに懐かしさの分量は増えていく。ある時点から、想い出の中にパワーを見つけることがプログラミングされていて、懐かしい人々との邂逅が必要になってくるんじゃないかな。きっと、そうだ。年をとるって悪くないものだなぁ、と独りごちて眠りについた。