一杯の幸せ

美化された記憶【一杯の幸せ】

ロンドンに姉が住んでいた頃、遊びに行くたびに帰りのヒースロー空港で必ず買っていたチーズがある。イギリスのブルーチーズ・スティルトンで、陶器に詰められ上から鑞でシーリングしてある物だった。青カビ独特のコクにまろやかさが加わった味で、陶器の壺を開けていただくという楽しみもあった。しかし、これだけ世界中から様々なチーズが輸入されている日本で、なぜかこのチーズだけは、どこのチーズショップでもレストランでもお目にかかったことがないのである。またあのおいしいスティルトンが食べたいなぁと、名古屋市内のとあるバーで話していると、名古屋きっての名バーテンダーであり、ソムリエであり、さらにチーズプロフェッショナルでもある井上氏が「あ、入りますよ、そのチーズ」とおっしゃった・・・。値段は高いが、ロットさえ集めれば入るのだそう。一緒にいたLMPの人々と共に早速オーダーが成立した。


そのスティルトンが来ましたよ〜との連絡を受け、
早速LMPに食べに行きました。
これがそのスティルトン。
どうでしょう!
いかにもいわくありげでしょう?


陶器のフタを開けて、鑞を取り出し、中身をいただくと、記憶の通り、コクとまろやかさに青カビを付着させて熟成したような(どんなだ?)味わいが舌上に。ただ美味しいというだけではLMPでは許してもらえず、それから果てしない実験が始まった。このスティルトンにはどのお酒が合うか?というテーマのもと、あれやこれやと試飲が始まる。左からイタリアのヴィンセント、真ん中がピノーデシャラント、右がポモードノルマンディー。味わいがほとんと一緒だったのはポモードノルマンディー。軽やかな甘みが心地よかったのはピノーデシャラント。そして全員一致で一番「合うね」を連発したのはヴィンセントだった。これは柿のデザートに合うワインなのだそうで、そのねっとりした複雑な甘みがスティルトンのまろやかな塩味と混ざり合って至福の美味を生んだのだ。


実は、正直言うと、このスティルトンが本当に美味しいと思えるかどうかが不安だった。以前に食して美味しいと思った記憶は、大体の場合、美化されて頭に留まる。何年かたって同じ物を食しても、記憶が美化されすぎて、実際の味わいに感動しなかったという経験が過去に何度もあるのだ。今回もそうなってしまうのではないかと不安を抱えつつ、おそるおそるスティルトンを口にした。ラッキーなことに今回は記憶よりも舌の方が敏感に味わいを覚えていたらしく、「あの時に食べた味と同じ」だと感じることができたのだ。


これは男女関係にも同じことが言える。昔のカレシやカノジョに何年かぶりに会って「あれ、こんなんじゃなかった」と思う場合と「昔の通り素敵な人」と思えるかどうかは、両者がそれぞれに「変わらぬ美味しさを保っているか」と「変わらぬ味覚を保っているか」にかかっているのである。年月が経ち多少のカビは生えたとしても、熟成した味わいになっていれば「前より素敵な人」と評価されることだってあるはず。ま、そう思ってもらえるよう、せっせと良質なカビの繁殖に努めますわ。


ついでにもう一種類のチーズをご紹介。
こちらはテートドモワンヌ。直訳すると「修道士の頭」。
確かに修道士の頭みたいな形になってますね。パイナップルのごとく真ん中に穴が開けられ、専用の容器に収まっている。


持ち手を回すとチーズが削られ、
こんな風にカーネーション状のお花のようなチーズになる。
これならいくらでも食べられそうね、と言ったら、
殺気を感じたのか、さっさと片付けられてしまいました。


美味しくて珍しいスティルトンにヴィンセント、
そしてテートドモワンヌを召し上がりたい方は、お早めにLMPヘGO!